NHKにようこそ!
Wellcome to the N.H.K

 最高じゃない。これは当たり前。顔だって金だって頭だって地位だって、何にだって上には上があるもので、見上げれば果てしない高みに、いつだってゲンナリとさせられる。

 かといって最低じゃない。と思っている。というか思いたい。下には下があって、見おろせば底なしの深みから、誰かに仰ぎ見られていると信じたい。そして得たい。優越感を。安心感を。満足感を。

 けれども。そんな自分が同じように、上から誰かに見おろされていることに、いつかは気付く。忘れたふりをしたって、いつかは思い出す。そして覚える。劣等感を。不安感を。不満感を。

 どうすればいいんだろう。どうすれば心安らかに生きていけるんだろう。こうすればいい。上だとか、下だとかを考えなければいい。だからどうすればいいんだろう。その答えは。

 ひとりになればいい。ひとりになってひきこもればいい。誰からも見おろされず、誰も見上げないたったひとりの生活を、ひきこもって過ごしていればいい。そうすれば、優越感も安心感にも満足感にも浸れない。けれども、劣等感にも不安感にも不満感にも苛まれない。以上。

 以上? 本当に? そうかもしれない。それが答えかもしれない。でも違うかもしれない。答えは別にあるかもしれない。人の数だけ、もしかしたら人の数以上に答えがあるのかもしれない。そんな答えのひとつが、滝本竜彦の「NHKへようこそ!」(角川書店、1700円)のなかにある。

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 佐藤達広。22歳。大学中退。でもって無職。六畳一間のアパートに、もう4年もひきこもっている。自称、プロフェッショナルのひきこもり。「もしも『全日本ひきこもりオリンピック』などが開催されたなら、俺はかなりの好成績を収める自信がある」(10ページ)。そして試す。山篭りをして精神力を鍛えた大山倍達と同様、数年にわたってアパートに篭り続けて得た実力を。

 結果。ビール瓶を割ろうとした手は血まみれとなり、頭にはなおいっそうのもやもやが霞む。そして考える。考えて考え抜いた結論は、世界には陰謀が渦巻いている、ということだった。その正体は。NHK。「不思議の海のナディア」を放映して「アニメオタクを量産し、ひきこもりの大量出現に一役買った」(18ページ)NHKこそがすなわち、「日本ひきこもり協会」という名の黒幕だったと気付いて、彼は戦う決意を固める。

 で、何をしたのかというと、これが何もしていない。「アパートの外は危険で一杯だ。車が猛スピードで走り回り、杉花粉が飛び交い、たまに通り魔などが出没する」(23ページ)。そんな世界に飛び出すなんてとんでもないと、あの決意を固めた夜から数カ月経っても、やっぱり部屋にひきこもっている。そんなある日のたぶん朝。そして日曜日。隣から「おじゃ魔女ドレミ」の主題歌が聞こえて来る三田ハウス201号室に、オバサンと、17、8歳の娘がやって来た。宗教だった。

 オバサンにとまどう佐藤。岬ちゃんに取り繕う佐藤。でもってひきこもりだとバレてしまった佐藤は、打ちのめされて「両手で口をぎゅっと塞ぎ、息を、止めます」(34ページ)。もちろん死ねず、意気消沈したものの、かろうじて立ち上がって、佐藤は唐突にバイトを始めようと情報誌を買い、「ひきこもりよ。最悪ね」などとささやくNHKの工作員の妨害も振り切って、募集していたマンガ喫茶へと入る。そして。出会う。あの少女と。岬ちゃんと。

 ボーイ・ミーツ・ガールの物語が幕を開け、長かった佐藤のひきこもり生活に大きな転機がおとずれる。岬ちゃんに良いところを見せようと、自分はクリエーターだと言い張り、隣の「おじゃ魔女ドレミ」野郎で実は高校時代の後輩だった、夜々木アニメーション学院でゲームクリエーターの勉強をしている山崎に頼み込んで、クリエーターになるための修行を始める。しかし。

 あまりな内容に佐藤の頭はコワレかかる。というより半ばコワレて小学校に少女のパンツを盗撮に行ってしまう。あきれて逃げる山崎。迫る官憲。危うし佐藤。そこに現れたのが岬ちゃん。そして、ひきこもりから脱出するために、公園のブランコで岬ちゃんからいろいろな講義を受ける日々がスタートする。けれども事態は、救う者と救われる者の逆転を見て、一気にクライマックスへと突き進んでいく。

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 ほどほどの幸せなんていらない。永遠の幸福が欲しい。でもそれは無理。だったら何もいらない。情報が溢れて世の中があれやこれや矛盾だらけなのが見えすぎてしまった結果、絶望するより他に道がなくなる。だから自分は引きこもる。夜のアパート、ルリルリ人形に向かって「俺は寂しくない」とつぶやき、けれども「寂しいさ」と嘆き、「しかし! だからこそだ!」と叫んで、自らのひきこもりを正当化する佐藤の姿は、ある意味ひとつの真理だろう。

 けれども、そう叫んで自分を正当化しなければならないくらいに、その時の佐藤は絶望し切れていない自分に気付いていた。岬ちゃんとの出会いによって、彼は上を見た。そして下も見た。生きている以上、人の間で生きている以上、見過ごすことのできない人と人との関係に気がついた。そして走り始めた。答えを探して。そして見つけた。答えは、あった、たぶん。

 妙な自分より、さらに妙な少女と出会って、自分に残っている真っ当さを発見し、そこから立ち直りへの道を探す展開は、前作「ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ」(角川書店、1500円)とも共通。劣等感、不安感、不満感に苛まれていた気持ちが和らげられ、前を向こう、上を見上げてみようという気を起こされる。

 且つ、妄想がオーバードライブしていく展開の、ドラッグが染みていく時間にも似た高揚感や、登場するキャラクターたちが織りなす行動と会話の妙は、前作以上に洒脱でクールで格好良く、何度読んでも面白い。「三日とろろ、おいしゅうございました」なんていう、切実だけど妙に聞こえる言葉をしっかり流れの中で持ち出して、それを実にグッドなタイミングでぶつけた技に泣いた。そして笑った。

 エンディング。そのハッピーな、それとも単に新しいスタートかもしれないエンディングに、とにかく勇気づけられる。「大切なモノは、速攻で壊れる。−−二十二年も生きてるんだぜ。それぐらいのことは知ってるさ。どんなものでも壊れるのさ。だから最初から、なんにもいらない方がいい」(222ページ)。夜のアパートで、そう叫んだ彼の言葉はなるほどひとつの真理だった。けれども正解にはしたくない。描かれたエンディングが、真実となることを、すべてのひきこもりのために願おう。


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