ネバーウェア
neverwhere

 壁に扉なんて開かない。マンホールの下に街なんてない。ここにある場所には行けるけど、どこでもない場所になんて行けやしない。それが生。人間にとって唯一の。そして絶対の。

 だからこそ憧れる。壁に開いた扉の向こうに広がった、今とは違う生に。だからこそ求める。マンホールの下に築かれた街での、変化に富んだ活気ある日々に。そして願う。どこでもない場所にどうしたら行けますか? 答えはひとつしかない。想像せよ。心の中に。創造せよ。言葉として。それは無理? だったら読めば良い。ニール・ゲイマンの「ネバーウェア」(柳下毅一郎訳、インターブックス、2400円)を。

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 ロンドン。世界でも稀に見る大都会にやって来たリチャード・メイヒューは、証券会社のアナリストとして世界の富が集まるシティで働き、それなりの地位もそれなりの収入も得て、大都会での生を満喫していた。婚約者もいて、美術芸術の類が大好きというその婚約者、「首相か、女王か、神になる」(12ページ)ことすらあり得ると思わせる明晰さを持ったジェシカに引っ張り回されながらも、やはりそれなりの幸せを感じていた。

 けれどもなにかが足りなかった。本人がそうはっきりと意識していたかどうかは分からない。思いもよらなかいことだったかもしれない。それでも心の奥底に、死ぬ間際までが見えてしまいそうな唯一にして絶対の生とは違う、どこか別の場所にある今とは違った生をに憧れ、それを得たいと願う気持ちがあったのだろう。だからそれは訪れた。

 ジェシカの上司とともに会食をすることになっていたその日、予約を忘れてどうにか席は確保したものの、ジェシカからいつもの積極的な口調でやりこめられながらレストランへと向かう道で、リチャードは目の前にある壁に扉が開き、怪我をした少女が現れ、アスファルトにうずくまって助けを求める姿を見かける。放っておけ、さもなくば救急車を呼べば良いというジェシカをよそに、リチャードは少女が気になって仕方がない。

 上司との会食に出ないのなら、ジェシカはリチャードとの婚約の破棄するという。幸福の終わり。それでもリチャードは怪我をした少女を抱え上げ、自分のアパートへと運ぶことを決意する。その瞬間、リチャードの生は唯一にして絶対のレールからそれ、どこでもない場所へと向かう冒険の旅が始まった。

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 リチャードが助けた少女はドアという名で、リチャードがそれまで住んでいたロンドンとは違う、重なるように存在する地下世界のロンドンに暮らす有力な一族の娘だった。リチャードに助けられたのは、謎の勢力によって両親と妹を殺害され、自らも命の危険が迫って逃げていた途中、持っている”扉を開く”能力を使って地上に出た時のことだった。

 両親の仇を討つ。自分が襲われた理由を見つける。そうした思いからジェシカは地下のロンドンで暗躍する謎めいた男、カラバス侯爵に連絡を取り連れだって出ていく。ほんの瞬間だけ交錯した上と下のロンドン。それで終わりだったはずなのに、なぜかリチャードはそれまでのロンドンから弾き出されてしまう。会社から席はなくなり、ジェシカからは誰ですかといわれ、アパートには別の借り手がついてしまう。やがて話しかけでもしない限り、地上の誰もがリチャードに気づかないようになってしまう。

 と同時に、それまで気にもとめていなかったもの共がリチャードには見え、聞こえるようになって来る。ネズミと話す人々に道を聞き、暗闇を渡り真夜中の「ハロッズ」に開かれた市へとたどり着いたリチャードはドアと再会を果たし、カラバス侯爵、最強の腕前を持つと称させる戦士のハンターと連れだって、ドアの仇を探し、自らが地上のロンドンへと戻るために必要な鍵を探す旅に同道する。

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 下水道と地下道と地下鉄の間をぬってひろがり、逃げ出した豚が巨大化したと思われている怪物が棲む下のロンドン。気を抜くと闇にとらわれ、そうでなくても常に命の危険を感じながらも、日々をしたたかにたくましく生きている人々がいる下のロンドンの、猥雑さと活気にあふれた描写がただただ素晴らしい。物々交換が基本で、与えた恩に報いることが何よりの正義という価値観は、貨幣と打算こそが最高の価値観と化した上のロンドンに対するアンチとなって気持ちを誘う。

 そんな世界に生きる人々の描写も圧倒的。胡散臭さを放ちながらも豊富な知識を持ち、機知にも富んで行く先々で一行を助け、自らの危機ですら飄々とかわすカラバス侯爵。いつか怪物を倒す日を夢見、日々を鍛錬しながら生きる最強の護衛者ハンター。ノッポ&チビという悪党2人組の典型を地で行く姿を持ち、かけあい漫才のような会話をしながら、ドアたち一行を付けねらう殺し屋クループ氏(うじ)&ヴァンデマール氏。アトランティスの昔から地上に暮らし、ドアの両親が殺害された秘密を知っている天使のイズリントン。

 そしてドア。両親と妹が死んだ理由を探るため、良家の出とは無関係に危険渦巻く下のロンドンを意志の強さで渡っていくその姿に、惹かれない男などどうしていよう。邂逅を繰り返し、試練をくぐり抜け、真実を得たリチャードもしかり。後ろ髪を惹かれる別れを経てたどり着いたリチャードの結論を、莫迦だと思える人はどこにもいない。なぜなら人は憧れるからだ。開いた扉の向こう側に。そして願うからだ。どこでもない場所での活気あふれる生活に

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 もしかすると夢だったのかもしれない。それなりな地位、それなりな幸せとは真っ赤な嘘。日々の仕事に感じたプレッシャーに押しつぶされ、最高の人間であることを求めるジェシカとの恋愛に疲れて逃げ出したいと願ったリチャードが、狂気の果てに見た幻だったのかもしれない。下のロンドンなんて存在しない。あるのはこの現実のみ。そこから出たければ行くしかない。狂気の淵か、死の果てに。

 けれども「ネバーウェア」を読み終えた今なら思えるだろう。どこでもない場所はどこかに存在するのだということを。そしていとも簡単に行けるのだということを。創造すればいい。そして想像すればいい。方法は教わった。試せば現れる。「で?」と彼はいう。「来ないのか?」。あとは踏み出すだけだ。


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