作家の値うち

 かつて確か「文藝」誌上で展開され、その毎回違った縦軸・横軸の切り口の冴えにふむふむと感心しながら読んだ記憶のあるチャート式批評ですら悪評紛々だったのに、たった1本の評価軸、すなわち「100点満点」なんて分かりやすく、あからさまな切り口から当代の人気作家たちを評価してしまうとは。福田和也の「作家の値うち」(飛鳥新社、1300円)には既にして「点数化とはなにごとか」との非難がおこり、作家を抱えるメディアからは広告を拒否されているとのこと。確固たる作品への、才能への自信を持つ作家にしてみれば他人様に採点してもらうなどもってのほかという気持ちがあって、それに版元が配慮するのも商売としては致し方ない。

 もちろん福田和也とて、そういった反応が起こることは100も承知だったろう。だからこそ道化へと自らを貶めて世間を揶揄する種類の人間ならともかく、文芸批評の中心を斬り進む人間がよくもまあという気にはなる。どうしてこれほどまでに直裁的な行動に及ばなくてはならなかったのか。「作家の値うち」の冒頭で繰り広げられる持論によれば、それはあまりにも不当に低く評価されている作品がある一方で、あまりに無法に高く評価されている作品があることへの憤りという。

 「そうした状況を改善する、覆すことが、批評家の責任であることは云うまでもない」(6ページ)。ならばと立ち上がって下した評価が世間的な観念にあてはまっているはずもなく、大きく違って出て来ているものも少なくない。例えば村上春樹。「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーラン ド」が91点と高いのは世間一般の評価からも理解できるが、どちらかと言えば冗長で低劣と非難された「ねじまき鳥クロニクル」が、96点と本書中で「仮往生伝試文」(吉井由吉)、「わが人生の時の時」(石原慎太郎)と並んで最も高い点数を付けられていることには驚く。

 両村上のもう1人、村上龍は「テニスボーイの憂鬱」の91点が最高で、歴史に残る「コインロッカー・ベイビーズ」が82点といった具合に初期作品に高得点が並ぶ一方、近作に至るにつれて得点が下がる傾向がある点は、他の批評家たちと大きな差はない。だからこそ「ねじまき鳥クロニクル」の突出具合が気に掛かる。

 どうして「ねじまき鳥クロニクル」が世界文学たりえる名著に位置付けられ、現在読める存命作家の作品中で最高得点を獲得できるのか。「最長にして最大の問題作」であり「過去にも、未来にたいしても、鮮明な認識を保持することのできない現在において、その不鮮明さの塊を、しっかりとした手触りで、鮮明に描き出して見せたからである」(216ページ)とのコメントではまだまだうかがい知れない魅力を、いつか是非とも長文で語って欲しい。

 人物の好悪については結構過激な面を魅せる福田和也が、「喧嘩の火だね」や「罰あたりパラダイス」などで激しく非難していた車谷長吉の評価が総じて極めて高いことにもまた驚く。人は人であり創作態度は創作態度として非難しても、こと純粋に作品として見た場合には「良いものである」と評価する。この態度が福田和也の「100点満点」評価への自信がゆるぎないものだということをうかがわせ、作家へも読者へも真摯な姿勢でのぞんでいることを現している。

 もちろん福田和也自身に絶対的な基準があっても、それは「オレ文学」以上の何者でもない。絶対的基準を支える軸には個人的な相違はつきものだろう。池澤夏樹の「マシアス・ギリの失格」が低得点だったとして憤りを覚えたとして、それは何なのか、福田和也の評価基準とどこがどう違っているかを考えることで、作品を読む自分の立っている場所が見えてくる。あれほど嫌いと言っていた車谷長吉が70点以上2本に80点以上2本、辻仁成のフェノミナ賞受賞作となった「白仏」も84点と高得点でであっても、それはそれで1つの意見と納得した上で、だからと言ってそれが自分にとっての絶対ではないと思い、以後の読書への取り組みの指針とすればいい。

 綾辻行人、京極夏彦、東野圭吾、有栖川有栖といったエンターテインメントの面々も漏らさずチェックを入れて、結果純文学よりも総じて高い点数を付けているのも、福田和也の「文学」に対する分け隔てしないスタンスの現れだろう。もちろん「エンターテインメント」と「純文学」の持つ権能の違いについての自覚はある。だからこそ項目として分けているしコラムでも「いわばエンターテインメントが健康的なビタミン剤であるとすれば、純文学は致命的な、しかしまたそれなしでは人生の緊張を得ることのできない毒薬である」(33ページ)と言っている。

 ただ同時に、マーケットに揉まれて否応なく進歩せざるを得ないエンターテインメントに対する純文学の停滞についても言及しており、優れた書き手が続々と登場しているエンターテインメントの未来を「緊張をはらんだものになる」(231ページ)と見る。対するに純文学は……まあ、これも福田和也の意見であって、現況「J文学」なる惹句のもとに状況としては活性化が起こっている点、中身についても楽しませてくれる作品があることは、未来が決して暗いばかりではないことの証明になるような気がする。どうだろう。

 コラムでは、「『動機の不在』と『幼児のトラウマ』」が原因となった犯罪を描く作品が余りに多いことを突いた一文も面白い。「現代の日本人にとって肝心なこと、本質的なことは子供時代にしかないかの如くである」という福田和也は、そんな描き方を「何とも空しいこと」と嘆く。安易に「幼児のトラウマ」へと問題を押しつけ、過去を掘り返すような話は”諦め”しかもたらさないとも言う。確かに世の中に起こっている理不尽な暴力、理由なき殺人が起こる理由がなんなのかを探り、結果その要因の大きな部分に「幼児のトラウマ」があると指摘されるのも一面だろう。それでも「トラウマ」を越えて生きる喜びを感じさせてくれるような話が、福田和也でなくても読んでみたいものだ。

 とにもかくにも1人の批評家が絶対の信念に立って震った蛮勇の冴えには頭が下がる。なれ合い所帯の世界でかくも暴れまくった果てに残るもの、立ち現れるものは一体なんだろう。称揚かそれとも排撃か。出版界の度量と姿勢が問われている。


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