世紀末アニメ熱論
MILLENNIUM ANIME ISSUE

 エヴァよりガメラよりガンダムが大きい表紙も目立つけど、それ以上に目立つのが帯に赤く抜かれた「熱い!」の文字。ネットや同人誌で誰もがアニメ批評を発表できるようになる中で、シニカルに斜めに裏から刺すようにアニメを語る、というか批判する人も大勢出て来ているけれど、ロトさんこと氷川竜介さんの「世紀末アニメ熱論」(キネマ旬報社、1500円)に収められた言葉が、表向きは厳しいことを言っているように見えて、決して一方的な罵倒にはならないのは、そこに込められた「熱さ」故、なんだろう。

 例えばこんな言葉。「設定や年表にこだわるファンには、ぜひもっと大きな視点を持ってこういうことにも思いをはせて欲しい。きっと人間は、大きな時間の流れのようなものを認識できて、そこにこめられた人の意思のつながりのようなものがわかって、自分自身の暮らしや精神の安定に役立てることの可能な、比類なき能力を持った生物なのだから」(51ページ)。

 あるいは「オタクは自己卑下が激しく露悪的な傾向があります。私自身がそうです。でも受けた感銘が『本気のものづくり』からのものであれば、ちょっと気持ちを切り換えて前向きにまた自分の『ものづくり』として本気で世の中に打ち返せば良い。あるときからそう思うようになりました」(97ページ)という言葉。触れると火傷しそーな作家と作品への熱い気持ちがそこにある。

 直接的な言葉もある。”一億総山岡士郎化”に対して「それでは一週間後に本物の味を」ちゃんと持ってこれる真・山岡士郎としての批評の在り方を方っている「月刊アニメージュ」2000年2月号所収の「90年代的アニメファン気質」の結語はそのままズバリ「否定文で構成された言葉は、人や作品を傷つけるダークサイドのものだ。その魔力にとらわれず、肯定文でアニメを語っていこう。その先にある輝かしいものを前向きにみつめていきたい」(139ページ)というものだ。

 もちろん、アニメを見ているファンどうしで流通させる言葉が否定文だけで構成されるはもやむを得ない気がする。けれど、ネットなり同人誌なりを経由して、否定文の言葉がクリエーター本人に届くようになった時代には、やっぱり紡ぐ言葉に込める「想い」が必要になって来ているような気がする。

 氷川氏がアニメへの想いをこれほどまでに「熱」を持って語れるのは、アニメ作りに「熱」を持っている人と生に接触して言葉だけじゃなく身振りや口から飛ぶ唾に踏みならす足音、汗の匂いといった部分までをも感じ取れるってことがあるような気がするのは、生のアニメの作り手たち、クリエーターたちと触れる機会のない当方のやっかみで、もちろんそういったクリエーターたちの「想い」が作品の出来に結びついていない時には、氷川さんだって批判はするだろう。それでもクリエーターの「想い」を知っているのと知っていないのとでは、批判であっても言葉に込める「想い」が違って当然だ。

 とはいえ視聴者がクリエーターの「想い」に近づく機会なんかない訳で、その意味でも批評の人やらアニメ雑誌の人にはクリエーターの「想い」が伝わるような記事なり文章をもっといっぱい書いてもらいたいし、クリエーターの人も「想い」を隠さずに話して欲しい。ただし「想い」が空回りした挙げ句に色が抜けてたり鳴門が無限だったりするのだけはナシ。やっぱ作品があっての物種だから。

 前述の「90年代アニメファン的気質」を結ぶ「次の10年を楽しく生き抜くため」(139ページ)という言葉に紡がれた、決意とも呼びかけともとれる氷川さんの言葉にさてはて、どれだけの人が呼応するのかは分からないけど、なれ合いではなくかとって敵視でもない良好な関係の中で正のスパイラルがアニメを良い方向へと向かわしてくれたらこんなにうれしいことはない。


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