猫の地球儀
………焔の章………


 山があるなら登ってみたい。海があるなら渡ってみたい。空があるなら飛んでみたい。月があるなら行ってみたい……

 「外」へと向かって突き進みたいという衝動が、生命としての本能に根ざしているのかは浅学にして知らない。人間に限って言うならば、そんな衝動があたったればこそ、山へ、海へ、空へ、月へと突き進んでは限界を突破し、進化し発展できたのかもしれない。

 ただし、突破した限界が長く限界であった理由も一方にはある。衝動が人間の暮らしを危機に晒しかねない可能性が、例えば空なら恵みを与えてくれる太陽神の機嫌を損ねはしないかという畏敬がイカロスの落下という伝説となって結実し、海なら異文化との接触によるコミュニティの変化=崩壊を回避するための渡航禁止となって現れた。

 宗教の権威が人々を統べ規律ある暮らしを求めるかわりに魂の安寧を与えていた中世の時代に、宗教の権威を脅かす教えなり考えは許されなかった。後世、「自由」なる美名のもとにその時代を糾弾する声を聞く。事実、「自由」がもたらした恩恵は科学を育み暮らしを豊かにして人間の一層の発展を促した。

 けれどもそれは果たして正しかったのだろうか。文明の発展によって人間は自然を失い資源を枯渇させその内に大きく滅亡を手繰り寄せた。今また遺伝子という残されていた領域に挑もうとする人間の衝動が世界を包もうとしている。それでも進むべきなのか。進むことによって危機を超える意義を人間は得ることができるのだろうか。

 秋山瑞人のオリジナル作品「猫の地球儀 ……焔の章……」(メディアワークス、510円)は、人間ならぬ猫がタブーに挑み限界を超えようとする話だ。場所は地球の衛星軌道上をグルグルと回る筒状の宇宙ステーションで、住んでいるのは知性を持った猫ばかり。猫たちによって「天使」と呼ばれる人間はとうに死に絶えていて、それから時間も相当に経っているため「地球」や「宇宙」に対する知識は伝説の彼方に埋もれてしまい、猫たちは地球を死んだ魂が「昇って」行く「地球儀」と呼んでいる。

 外に出れば真空の宇宙。重力に惹かれて地上へと落下すれば、燃え尽き爆散するだろう極限状態に暮らす猫たちが、自然身につけた教えでは、「地球儀」へ向かうなど異端も究極の異端に位置する考えに当たる。しかしなかに「それでも『地球儀』に行きたい」と願う猫たちが出てくる。猫たちの宗教はそんな異端の猫を「スカイウォーカー」と呼び、見つければ殺害し続けて来た。

 けれども衝動は抑えられない。数えて第37代目の「スカイウォーカー」が現れて「地球儀」への渡航を夢みる。彼の猫、幽(かすか)は先代から受け継いだ「天使」の姿を模した「クリスマス」いっしょに、身を隠し修理業を営みつつ「地球儀」へと向かう準備を進めている。

 一方。知性だけでなく精神力も発達させた猫たちによって繰り広げられている娯楽、戦闘用のロボットを念によって操り戦う「スパイラルダイブ」に、長くチャンピオンとして君臨して来た斑(まだら)を倒した猫がいた。その猫、焔(ほむら)はけれども強さ故に孤独を覚えて放浪を始めた先で、自分が寸秒もかなわなかった猫とロボットのコンビに行き当たる。それが幽と焔との出会いだった。

 一瞬のスキを見逃さず技を繰り出す「スパイラルダイブ」の場面でのスピード感あふれる戦闘描写と、ロボットを操る「スパイライルダイバー」の猫たちの緻密な精神描写が前半の見せ場になっており、読む者はその迫力にまずは圧倒されるだろう。やがて世界が見え始めるにしたがって、限界を超える意義とそれがもたらす危機についての哲学的な考察を突きつけられて悩むだろう。純真無垢な夢に向かって邁進する幽をそれでも支持すべきなのか。愚挙と攻め操るロボットによってその首をたたき落とすべきなのか。

 猫が知性を持つに至った理由も含めて、謎の多い舞台設定に一段の説明が欲しいところだが、猫に仮託して、文明を誤用し自ら危機を招いてしまう人間の愚挙に一石を投じようとした「寓話」と位置付けるなら、とりあえずの要件は充たしている。残るは幽と焔との再戦によって幕を開けるだろう次巻「幽の章」を経て、「地球儀」に向かうという物理的な冒険のみならず、限界への挑戦についての思索がどういった結末へと向かうのかに興味が及ぶ。

 事は新しいミレニアムを迎え新しい世紀を迎えようとしている人間が、宗教も科学も総動員して取り組まなくてはならないほど重要な問題だ。期して著者の答えを待ちたい。


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