夏と夜と

 何歳になっても人は迷う。学生だったら進路のこととか恋愛のことで悩み、苦しんで迷うだろうし、時には迷いが高じてひきこもりになったりもする。大人は大人で仕事のこととか家族のことで壁にぶち当たって迷う。ひきこもろうにも仕事や家庭はそう簡単には投げ出せない。

 だからといって壁をぶち破るだけの力を出せない大人の心は、その場に立ちすくんだまま悶々とするばかり。「野生時代」に連載された鈴木清剛の「夏と夜と」(角川書店、150円)に登場する主人公の“僕”が陥っているのが、まさにそんな状態だ。

 鈴木清剛と言えば、入社2年目のサラリーマンが、平凡な日々に退屈さを感じ高校時代の同級生に誘われインディーズブランドの旗揚げに参画する「ロックンロールミシン」で三島由紀夫賞を受賞した作家。若さで壁と格闘する物語が支持を集め、映画にもなった。

 「夏と夜と」はそんな「ロックンロールミシン」の若者たちが、分別を持たざるを得ない大人になって直面した事態を描いたようなストーリー。主人公の“僕”は専門学校を出て会社勤めをした後、衣服の型紙を作るパタンナーとして独立した。腕が良いから仕事は途切れず、妻も得て暮らしは順調そのものだったのに、“僕”の心にはだんだんと影が差していく。

 ゆき、という名の妻とはとても仲良くやっていた。ただ1つ、欲しかった子供がなかなかできないことが2人の間にちょっぴり影を落としていた。その影が、同じ家で1日中顔をつきあわせたまま、何年も仕事をし続けている状況に重なって広がってしまったのだろうか。行き詰まりを覚えて悶々としていた“僕”は、もう何年も合っていなかった、専門学校の同級生だった和泉みゆきに会いたいと想うようになった。

 “僕”とみゆきと、そしてスウちゃんという子を入れた3人は、部屋を行き来するくらいに仲が良かった。けれども2年生になってクラスが別々になってから、ずっと関係は途切れていた。卒業して間もなくスウちゃんが死んだ時も、お葬式で再会したみゆきとの関係は戻らなかった。それが今になって、“僕”はみゆきに会いたくてたまらなくなってしまった。

 どこかの宝石店に勤めている。そんな記憶から勤め先を探し出し、再会を果たしたみゆきから、“僕”は不思議な話を聞かされた。死んでしまったスウちゃんの幽霊が、みゆきの叔父が管理している、鬱蒼と繁った森に建つプレハブ小屋に現れるというのだ。

 ゆきとの行き詰まった関係から逃げ出すように、“僕”はみゆきのプレハブ小屋に暇を見つけて通っては、スウちゃんが現れるのを待っていた。そして遂にスウちゃんは現れた。みゆきの体を借りて……。

 ここではないどこかへと逃げ出したいのに、何もかかも捨てるほどの熱さはわいてこない。焦りながらも最初の一歩が踏み出せない。そんな30代の気持ちを描いたストーリーは、同じ世代にさしかかっている人たちの迷いをザワリと撫でて気をせき立てる。いずれ30歳になるだろう若い人たちには、大人になるって虚しいことのあのかもという気を起こさせる。

 大人になんかならなくて良い。あの専門学校の日々。毎日が熱くて弾んでいて楽しかった“僕”とみゆきとスウちゃんのような、恋愛感情とか打算とかいったものを越えて繋がり合える人間関係に囲まれて、楽しく暮らしていければ良い、とそんな願いに溺れたくなるかもしれない。

 けれども時間は止まってくれない。絶対に止まることはない。ひきこもっていたって時間はどんどんと流れていく。否応なしに訪れる未来で見えない壁に突き当たった時。素敵だった過去の思い出があれば乗り越えていけるんだということを、「夏と夜と」の物語は教えてくれる。

 その季節、その場所で、その世代として集ったからこそ生まれ、堅く結びついて成り立っていた関係は、他に代えようのないものだ。それなのに当時は、当たり前のように感じていた。大人になった“僕”の周りも今、そんな素敵な関係があるのかもしれない。30歳なら30歳のかけがえのない時間を、漫然と生きるなんて勿体ないことなんだと語りかけてくる。

 スウちゃんのように幽霊がよく現れる、以前は沼地で今は森となっている場所の謎が明らかにされることはない。最初から存在するものではなく、迷っている人の前に、過去と繋がり逃げ場を与えてくれる場所として、沼地が生まれるものなのかもしれない。

 そんな沼地は欠けた心を持った人たちを引っ張り込んで、永遠の逃避に手を貸すこともあるけれど、逆に沼から欠けたピースを出して、ポッカリと開いていた穴を埋め現世へと戻してくれることもある。選ぶのは自分だ。

 迷っている心に導かれ、現れた沼地へと足を踏み入れた方が良いのか。それとも思い出を思い出として噛みしめながら、一歩、前へと進むべきなか。「夏と夜と」を読み、周りを見渡しかけがえのない今を感じて、それからどうすべきなのかを考えよう。


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