夏の終わりに君が死ねば完璧だったから

 難病物というカテゴリーがあるとしたら、その中に括ってしまえそうな設定だろう。同じメディアワークス文庫から出て、映画化もされた佐野徹夜の「君は月夜に光り輝く」もやはり難病物で、体が輝く発光病という不治の病に冒された少女を少年が看取ることになる展開の中、かけがえのない時間といったものを強く思わされる。

 もっとも、難病を経て来る死が浮かび上がらせる、関わった人たちの心が決して同じ方向を向いているとは言えない部分があって、斜線堂有紀による「夏の終わりに君が死ねば完璧だったから」(メディアワークス文庫、610円)を有り体に難病物と括りづらい。

 体が硬化しやがて死ぬと体が金塊に変わる、多発性金化筋繊維異形成症、通称「金塊病」に罹った都村弥子という女子大生が、海の近くにあるその病気専用に作られたサナトリウムに入院していた。経済的な観点から行政によって誘致活動が行われた一方で、反対運動も行われたりしたサナトリウムの壁にはペンキでいろいろな落書きが描かれていて、その中には黒々としたクジラの絵もあったりした。

 そんな施設の塀のから弥子が落としたマフラーを拾った中学生の少年、江都日向は弥子に誘われるようにして病室を尋ねて行く。そこで日向は、弥子からゲームのチェッカーをして自分に勝てたら死んで3億円もの金塊になる自分を相続させるよと言われる。

 父親が消え、母親はサナトリウムの反対運動にのめりこみ、転がり込んで来た男は地域の活性化に早くから取り組みながらも挫折して引きこもり状態。こんな家から、こんな街から早く抜け出したいと思う江都には、3億円という大金は魅力的に映った。けれども、それにのみ執着する雰囲気は見せないまま、江都は弥子の病室に通いチェッカーをして負け続ける。

 すべて正解の手を指せば絶対に引き分けになるチェッカーというゲームで。それは正解を知らないからなのか。知って引き分けた先に受ける相続という成果にどこかためらいがあるからなのか。単純にまだ弱いから、なのかもしれない。

 それでも勝負は進み、弥子の病状も進んでいく。足首から先など硬化した部分を切断しながら生き続ける弥子の姿に江都は涙を落とし、見ている僕たちも涙する。このあたりは、親しくなった人の近づく死を思い悲しむという意味で、難病物の定式と言える。

 とはいえ、どこかに3億円が手に入れば、嫌いな街から抜け出せるのではといった思いを巡らすこともあって、弥子の死を純粋に悲しんでいるのかを迷わせる。そこに、純愛が浮かび上がって輝き出す難病物との違いが見える。もちろん、不動産や金銀財宝といった一般的な財産を持った親しい人の死も同じ不純さを匂わせる。それでも、弥子の肉体の死と引き替えに生まれる金塊を受け継ぐこととは少し違う。

 金塊とても引き取られて金に換わるのだから財産と同じかもしれない。違うかもしれない。ダイレクトにつながる手の中の金と親しくなった人の死を、同列に思えるかどうか。そこはなってみないと分からないのかもしれない。江都の場合は、揺れ始める気持に、大金と引き替えにはし難い思いの形、強さが感じられた。だから、受け入れて受け止めて歩き出せたのだろう。後悔はせず。

 弥子の側は、何を思って江都に接近を揺るし相続を持ちかけたのかにも興味が向かう。寂しかったからか。からかっただけなのか。自分という存在を誰かに残したかったからなのか。記憶として残すより、金塊として残した報がずっと覚えていてもらえると考えたのか。いろいろな想像が浮かぶ。

 そして、それがどうして江都だったのか。そもそも江都と決めていたのか。そして最後はどうしてああいった決定を下したのか。そこにもいろいろな想像を促される。そして知る。人はいろいろなものに勇気をもらって生きているのだと。「夏の終わりに君が死ねば完璧だったから」はそんな物語だ。

 人は好意を抱いた人の死に何を思う? 人は好意を抱いた人に死をどう残す? 読めばそんな問いかけをもらえるだろう。そして答えを探して歩き出すのだ。いつか自分にも訪れるその時を目指して。


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