瓦礫の都市
The Monkey House

 数百万人のユダヤ人を虐殺してもアドルフ・ヒトラーは英雄になどなってはいない。だが儒者を山ほど生き埋めにした始皇帝は、英雄とは言葉がちょっとニュアンスが違うものの、偉人としてその名を歴史に刻んでいる。妄言だがもし仮に、ユダヤ人が世界を支配し地球を滅亡のふちに陥れる未来が訪れたとしたら、歴史家たちはヒトラーをも未来を予見した偉人として讃えるのだろうか。

 92年に勃発したボスニア・ヘルツェゴビナ扮装は、最近のコソボ地区での空爆問題を引き起こす「ユーゴ内戦」へと繋がる、バルカン半島を今なお火種としてくすぶらせ続ける口火の1つとなった。大勢が死に、都市も崩壊して難民も数多く出している「ユーゴ戦」の、けれどもどの勢力が「正義」であり、また「悪」なのかを今もって誰も判断ができずにいる。

 なるほど欧米各国を中心とする国々は、現時点ではユーゴ共和国を敵と見なしてコソボ問題でもユーゴに空爆を慣行したようだが、これをもって「正義」の鉄槌と言って良いのだろうか。単なるアメリカの基準による「正義」ではないのか。結局のところ、事の善悪などはその時々の常識なりでガラリと攻守ところを変えるものであり、相対の中でしか判断のできない曖昧なものなのだ。絶対の「正義」など存在しなければ、絶対の「悪」もまた存在しない。歴史家がたとえ「正義」と断じようと、未来永劫それが正しいとされ続ける事などあり得ない。

 92年のボスニア・ヘルツェゴビナ扮装を記者として取材したジョン・フラートンが、体験をもとに初めて書いた小説「瓦礫の都市」(真崎義博訳、早川書房、2000円)に登場する、半ば自称の「特殊部隊」を組織してサラエボの街を裏側から支配しようとしている男・ルーカはこう叫ぶ。「なあ、答えてくれ。おれがこの街を救うために盗んだり、騙したり、殺したりしているとすると、おれは英雄か? それとも悪党か? 砲弾を買うために人から金品を盗んだら、おれは犯罪者か? 街の機能を守るために国連から物を盗んだら、俺は盗人か?」(138ページ)

 彼は民兵組織を作って人々を強権で支配しようとしているが、一方では武器をそろえ政府軍に人材ともども供給し、サラエボに侵攻してくるクロアチアと戦うための強い力となっている。その意味では彼はボスニアの国家の英雄ともなりえる人材であり、狭い範囲で「正義」と言って決して間違いとはならないだろう。

 だがルーカは、世間一般の規範に照らし合わせれば、まさしく「悪」の存在だった。本編の主人公で警察の刑事部長・ロッソにとっての規範と言っても良いだろう。場所は「モンキー・ハウス」と呼ばれるアパートの1室。歯科医だったらしい女性の腐乱死体が発見され、どうやら知人らしいと気付いたロッソは、ルーカの周辺との深い関わりを事件に感じて調査を始める。だが、武力を持ったルーカの邪魔が入り、また警察自体も人材の流出や戦時下という山ほどの死体が毎日量産される中でのたった1人の死というものの意味をつかみかね、捜査の意欲を鈍らせる。

 ロッソが「悪」と認めるルーカに何故か体を預ける養女・タニヤ、アル中の妻サヴィーナ、サラエボで取材を続けるおそらくは著者の投影ともいえるジャーナリストのフレットらとの関わりを絡めつつ、物語はロッソが1人敢然と「法」とう名の「正義」にのっとって捜査を行い、ルーカを追いつめていくまでを描き出す。それはなるほど過酷な状況の中でも信念を揺るがせない男への、ある種の賞賛とも取れるだろう。物語の1つの主眼も、こうした”貫く正義”への讃美にあると言って良い。

 だが、酷く小さな状況で振りかざす「正義」が、より大きな状況の中で果たしてどこまで「正義」として通用しているのだろうか。ロッソ自身はナチス・ドイツに協力してセルビア人を迫害したクロアチア人の当時の「英雄」を父に持ち、今はそれが周囲の畏敬と軽蔑を自らの名前に与えている。だから、ロッソがいたずらに正義感を発揮して事件を追えば追うほどに、自らの家計の傷を嫌そうとする一種のエゴが透けて見えて仕方がない。

 そもそもがロッソの貫こうとした「正義」すら、戦争という限定された「ユーゴ内戦」の状況をも超えた、西側諸国を中心に回る世界規模の視点から見た時に、逆に「悪」として糾弾される結末を迎えてしまう。自信の「正義」によって犯人を捕まえた報復として誘拐されつぃまったジャーナリストの身代わりに、ロッソ自身の命が「世界平和」の贄(にえ)として差し出される。これだって世界という観点から見れば立派に「正義」の振る舞いだ。

 一見すれば戦争という異常な状況でも揺るがない「正義」への称揚の物語。だがそこに提示されている問題は、もっと大くまた困難なものをはらんでいる。相対的な「正義」の概念の曖昧さ、移ろいやすい「正義」の尺度のくだらなさを通し、結局のところ従うべきは己のみという、ともすれば後ろ向きだが、決して後に悔いを残さない強い意志を持てと訴えている。そんな気がする。

 愚昧かもしれない。エゴイストとも言えるだろう。だが、今のこの社会で尊ぶことを求められている国家の「正義」など、実は誰かのエゴに過ぎないのだと思い知れ。そしてそんな1国の「正義」ですら、世界秩序の上で簡単に揺り動かされてしまう不安定なものだと認識せよ。「正義」など誰に決めてもらうものでもないのだから。己自身が決めて行動すればそれば「正義」なのだから。


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