ジェルソミーナ

 80年代と90年代とでは、なにかが変わってしまっている。あるいは70年代と90年代とでもいい。その10年なり、20年なりの間に、確実に変わってしまったものがある。

 ファッションはもちろん変わった。変わりすぎてもう1度、同じファッションが流行している状況が出ていなくもないが、完全に再現されているわけではなく、その時代の空気を呼吸して、その時代なりの解釈が加えられたものになっている。

 街並みは大きく変わった。低かった家並が、ふと気が付くととぐんと高くなって空を小さくしている。見えていたはずの山の端を、巨大なビルが覆い隠してしまっている。夜空を仰げば、人工の光にかき消されて3等星すらろくに見えない。

 そして人の心も。たぎっていた「血」と燃え盛っていた「炎」が、今はサーモスタット付きの「微熱」のままとなり、都市を重苦しく覆っている。爆発はしない。けれども冷めもしない。角材と爆弾に席巻された喧噪の70年代が終わり、メッキの黄金に飾られたた80年代が過ぎ去って、そして訪れた90年代。

 1日を小過なく暮らし、それを繰り返して1年を、10年を、1生を平穏無事で暮らすことだけを、無意識のうちに求めている人たちが増えた。角材や爆弾でも、アルマーニのスーツやBMWでも、武器にならないことを知ってしまった90年代の人たちにとって、生きることはすなわち、生きていることだけを、ただ確認する作業へと堕してしまってはいないだろうか。

 喧噪に満ちた70年代を駆け抜け、虚飾に彩られた80年代をくぐり抜けた笠井潔にとって、90年代というキャンバスに描かれた絵画は、巧みだけれど奥行きがなく、賑やかだけれど力に乏しく、色とりどりだけど鮮やかさに欠ける、そんな風に映っているような気がしてならない。

 「道 ジェルソミーナ」(集英社、1700円)に収められた4つの短編は、それぞれが90年代に特徴的な画題を扱っていて、通して読むと1枚の絵画になって眼前に屹立する。けれどもそこから感じとれるのは、こぢんまりとまとまった欲望や、絶望するだけの毅然さを伴わない虚無感しか持ち得ない90年代の人々への、冷徹なまでに醒めた視線だ。

 連作短編を通して登場する主人公の探偵、飛鳥井は、1948年生まれの笠井と同じ年齢というから、日本にいれば血気盛んだった20代に70年代を生き、社会の中堅として上と下からの信頼、あるいは上と下からのプレッシャーに挟まれる30代に80年代を生きたはずだったろう。しかし「飛鳥井」は、喧噪に巻き込まれることもシステムに組み込まれることもなく、海外で長い年月を過ごし、90年代の日本へと戻って来た。

 「硝子の指輪」で飛鳥井は、AIDSにまつわる事件に関わることになる。植物状態のままでAIDSを発病して死んだ妻ジュリアのことを思い浮かべながら、飛鳥井はHIVキャリアだった大学教員の死を調べ、彼をHIVに感染させたと見られているタイ人女性の行方を追い、そして真相へとたどり着く。そこには欲に溺れそこなった男と、愛に溺れそこなった女の、やり直そうそてい果たせなかった悲しい姿があった。

 「晩年」。飛鳥井は幸福にしがみつこうと必死になった女の悲しい末路を見る。「海馬」。飛鳥井はプライドを満たすために仕事にしがみつこうとした男の哀れな末路を見る。「道 ジェルソミーナ」。飛鳥井は永遠の宴に溺れたいと願った女の暗い末路を見る。現実を否定して1からやり直すことができず、かとって現実を甘んじて受け入れることのできない男や女たちが、挙げ句に自壊し、自滅していく様を、飛鳥井は静かに眺めている。

 そんな彼たちや彼女たちが、今現実に生きている世界とは、磨りガラス1枚隔てられた場所にいて、飛鳥井は世界に向けて、醒めた視線を送り続けている。けれども彼たち彼女たちは、飛鳥井の視線を感じながらも、磨りガラスの向こうの飛鳥井を引きずり出すほどには、「血」をたぎらせることはなく、「炎」を燃やすことはない。

 虚無感にからめ取られた90年代、20世紀の最後の10年を越えて、やがて訪れる2000年代は、どんなモティーフ、どんな構図、どんな色彩で描かれることになるだろうか。同時代に染まりすぎた身には、予想だにできない2000年代の絵を、磨りガラスの向こうで飛鳥井は、どう思い描いているのだろうか。

 今は問うまい。いずれ自分の目で見ることができるから。けれども飛鳥井が、その本身である笠井潔が、見つめ続けていられるだけの「熱」を持った時代であることを願う。そうあるために今、自分にできる何かを見つけに行きたい。時間はもう残り少ない。


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