ミッキーマウスの憂鬱

 ”中の人”なんていない。ミッキーマウスに人が入っているなんてあり得ない。それが掟。それが定理。絶対に崩せない、崩してはいけない「ディズニーランド」の憲法だ。

 従業員はキャスト。訪問者はゲスト。キャストはゲストの前ではいつも演技をしていなくてはならない。疲れた表情をしてはいけない。あくびをしても多分いけない。舞台裏のの人は表通りを歩けないし、舞台の裏をゲストに見せてもいけない。

 ランドを離れてもそれは変わらない。ランドのバックステージがどうなっているかを電車で会話してはいけない。学校で喋ってもいけない。もちろん”中の人”についても。ミッキーマウスが着ぐるみであることも。

 けれども僕たちは知っている。中に人が入っていることを。ランドがおとぎの国ではないことを。なのにゲストもキャストも決しておおっぴらには口にしない。どうして? 魔法が解けてしまうから。精一杯の演技で迎えてくれるキャストから、きらきらと輝くステージからもたらされる心地よい気持ちにずっと浸っていたいから。

 だからこれまで「ディズニーランド」の秘密が、本でもテレビ番組でも、表に出ることは一切なかった。オリエンタルランドもウォルト・ディズニーもさせなかった。松岡圭祐の「ミッキーマウスの憂鬱」(新潮社、1300円)は、そんなランドの舞台裏をおそらく初めて、そしてもっとも克明に書いた物語だ。

 後藤大輔は21歳のフリーター。夢のある仕事がしたいからと、派遣会社を通して「東京ディズニーランド」のキャストに応募した。性格はまっすぐでおっちょこちょい。セリフにとちり焦りまくった挙げ句、か実技のテストで向こうから手を振るミッキーマウスに向かって、あろうことか「着ぐるみだ」なんって言ってしまった。

 当然不採用かと思ったらこれが採用。どうやらランドは深刻な人手不足で、どんな人でもすぐに来て欲しかったらしい。もっとも人前で働きゲストを顔を突き合わせる仕事には不向きと見られたらしい彼。美装部という部署に準社員、つまりはアルバイトとして採用されて、パレードで演技するクルーの着替えを手伝う仕事にありついた。

 ”中の人”なんていないはずのランドで”中の人”たちを手伝うという矛盾でいっぱいの仕事。表通りを歩いて移動することは許されず、別の部署の仕事に口を出すこともダメという制約でいっぱいの環境に、最初はとまどい続いて怒り、嫌気の差し始めていた最中、主人公の配属された部署でミッキーマウスの着ぐるみが消えてしまうという事件が起こって大騒ぎとなる。

 美装部の女性が関わっているのではないかと責める正社員。そうではないとかばうアルバイトたち。融通のきかない企業のありがちなギスギスとした雰囲気が立ち上り、夢の王国の揺れる足下があらわになって夢見ていた人たちを興醒めさせる。パレードのクルーとショーのクルーの間で燃えあがる激しいライバル意識も浮かび上がって、夢の王国の厳しい現実が見えて来る。

 ミッキーマウスの体型に合わせて作られている着ぐるみはアメリカ製の特注品。なくなったからといって他の着ぐるみで間に合わせるなんてことはできない。盗まれた着ぐるみの”中の人”は舞台から降り、代わり人が舞台に上がる栄誉を得る。

 他のキャラクターもミッキーマウスの身長に合うよう厳密に決められているから、ミッキーマウスの”中の人”が代わってしまうと、後ろのクルーのすべても代えられてしまう。舞台にあがりたい誰かが仕組んだ事件? そんな疑念も渦巻いて舞台裏は混乱し、”中の人”の存在をひた隠したいアメリカ本社のプレッシャーも加わって、ランドは緊張感に包まれる。

 なんだつまりは「ミッキーマウスの憂鬱」は、そんな「ディズニーランド」の内幕を暴露した告発本ってこと? 答えはノー。確かにランドが決して見せようとしなかった部分を露わにしたことで、醒める夢もあるかもしれない。けれども一方で、ひとつのショーを作ろうと、ひとつのパレードを成功させようと、ひとりのゲストをもてなそうと頑張るキャストの耐えない熱情が沸き上がって、触れる人たちの心を感動させる。

 仲間を信じて走る主人公。そんな彼の熱情にほだされ協力するキャストやクルーたち。すべてが明らかになったにも関わらず、事実をねじ曲げようと企む正社員にキャストやクルーが仕掛ける罠も面白くって心地良い。夢の王国を支える人たちの、夢を創ろうとして一致団結する姿に惚れ惚れとさせられる。

 もちろんこれはすべてフィクション。現実に存在している浦安の「東京ディズニーランド」とは無関係の世界の物語だと、作者は巻末で断っている。オリエンタルランドやアメリカのウォルト・ディズニーが憲法を改め、裏舞台の頑張る人たちにスポットを当てようとしたなんてこともない。現実の世界のミッキーマウスは着ぐるみじゃないし、”中の人”なんてもちろんいない。

 それでも僕たちは分かっている。”中の人”がいて大勢の裏方が働いていて「ディズニーランド」は支えられているんだということに。だったら僕たちも演じよう。物語という架空の世界で見た頑張る人たちの姿を心に止めながら、現実のランドでゲストとなって彼らの熱意を受け止めよう。いっしょになって永遠の夢の王国を作り上げよう。


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