マージナル・オペレーション01

 テレビモニターを見ながら、握ったコントローラーのボタンを押して、キャラクターに手にした銃から弾丸をばらまかせても、現実の世界で誰かが傷つくということはない。分かっているから誰だって臆さず、罪悪感をまとうこともなしにボタンを押し、弾丸をばらまいて向かってくる敵を殲滅できる。

 「その青いボタンはどこかの国の死刑台につながっています。押せば弾丸が発射されて(毒ガスが噴出されて)(踏み板が抜けて)(ギロチンが落ちて)死刑が執行されます」。もしもこの国で、試験だからといってそのボタンを押せと命じられて、「それがどうかしましたか」とすんなりボタンを押せるか、否か。

 たとえ、どこか国にいる顔も知らない誰かが、その国の法律によって適正に裁かれ、死刑を言い渡された人物だったとしても、ほとんど直接的に人の命を奪うような行動に、躊躇いを抱かない人は多くはない。試験が民間軍事会社、分かりやすくいえば傭兵派遣会社の入社試験で、いずれ人の命を殺めることが求められているのだとしても、慣れていない人間が、いきなり人の生殺与奪を決断するは困難だ。

 とはいえ、躊躇っていては決断力が足りないと見なされる。決断できない指揮官ほど、戦場に迷惑な存在はない。だからといって、自分をその場で納得させて、青いボタンを押してしまうのも違うらしい。無理矢理に自分を追いつめ、追い込んでいくようなやり方は、いつかどこかで無理を呼んで心を壊すし、指揮をしている兵士たちを無駄死にさせる。だったら、どういう性質の人間が良いのか。

 芝山裕吏の「マージナル・オペレーション01」(星海社、1000円)の主人公、アラタの場合は、日本という国で、外国の死刑を手助けする行為が行われるはずがないという推論から、すんなりボタンを押しても構わないと感じて、躊躇わず、自分に無理強いもしないで行動し、民間軍事会社に採用された。

 特に勉強ができる訳ではなく、かといって就職する気持ちも起こらないまま、高校を出て専門学校に行ったものの、希望のゲーム会社に就職はできず、そのまましばらくニートぐらしをしていたアラタ。流石に肩身が狭いと、デザイン会社に就職してチラシを作る日々を送っていたものの、その会社も倒産し、ニートとなって日々をどうにか暮らしていた時に、人材募集広告みて応募した。

 軍事の知識も戦闘の経験も一切なかったにも関わらず、出された試験を見事にクリアした。状況を直感的でなおかつ論理性も持って、スピーディーに判断できる能力があると見なされ、採用された。晴れて就職した彼に与えられる報酬は年間600万円。命をかけるには安いかもしれないけれど、ニートとしての身には十分過ぎる報酬を受け、アラタはオペレーターと呼ばれる軍事作戦を指揮する人たちを、さらに上からオペレートする「OO(オー・オー))」という職に就く。

 戦闘の現場には赴かず、パソコン上のモニターに映し出される情報と、無線による通信から入ってくる声を聞いて、人員を指揮して戦闘行為を行わせる仕事。もっとも、それは誰も死なず傷つかないゲームではない。敵にも見方にも死傷者が出る戦闘行為。それを、自らの指揮によって行わせることは、どこかの国にある死刑台につながるボタンを押すのと大差ないように見える。

 度重なる訓練の過程で、ひたすらボタンを押すような行為を強要され、アラタはその向こう側など考えないよう、心が慣らされてしまったのか。人間はそんなに弱くて壊れやすい生き物なのか。だから、戦いの存在しない平和は永遠に訪れないのか。そうとは限らないとうことを、冷静で冷酷なように見えるアラタが、実際の指揮にあたって示す態度や思考が感じさせる。

 仕事だから指揮はする。けれどもアラタの指揮は、ゲームの駒のように、何度もリセットがきくピースを、無駄づかいするようなものではなかった。可能な限り見方の損耗を防ぎ、最大の効果を得ようと指示をする。実に合理的。敵についても邪魔だからといって殲滅するような真似はしない。泥沼化は合理性の対極にあるからだ。

 訓練期間中、与えられた課題を、あくまでシミュレーションだと思ってこなしていたアラタは、現場の兵士から感謝されたことで、実はすべてが実戦だったと知る。そして、かつて1度だけ行った、やや突出した攻撃の指示によって、どこかにある村を全滅させたのではないかと思い、腹にもやもやとしたものを抱えていた。

 SF作家のオーソン・スコット・カードが、「エンダーのゲーム」に描いた、エンダーという天才少年の苦悩にも似た思考。もっとも、聖人君子でも超絶的な天才でもないアラタは、エンダーのように“死者の代弁者”となって、宇宙の安寧に尽力するような真似はせず、懺悔して会社を辞めて贖罪に勤しむことなどもしない。会社に居続け、指揮をとり続ける。

 壊れてしまた訳でも、開き直った訳でもない。その場所で自分にできる最大のことをしようと、合理性を求めた。憎しみの連鎖が戦いの連鎖となって世界を蝕んでいるのなら、そこに冷静で合理的な議論を挟んでみせればいい。主人公の示した戦いぶりと、その後の行動から見える、そんな世界への向き合い方が、戦いに明け暮れる世界に光明をもたらす。

 決して戦いを嫌っている訳ではなく、理不尽への憤りなど感情も備えているアラタは、物語のラストでとある行動に踏み切る。平和への逃避ではなく、積極的な扮装への介入だったりするけれど、、今の馴れ合いから来るぶつかり合いではなく、均衡への模索だったりするところに、同じような合理性を尊ぶ心理を見る。その成果が現れる次巻以降の展開を経て、現れる世界のビジョンやいかに。気にしたい。

 20世紀の末に発売され、熱烈なファンを生んだゲームソフト「高機動幻想ガンパレード・マーチ」を送り出した柴村裕吏。ひたすらに過酷で未来のない戦いに身を投じる少年少女の悲壮な姿を描いたゲームは、決して絶望にのみまみれたものではなかった。プレーヤーが考え抜くことで切りひらかれる光明は、そのままアラタによる「OO(オー・オー)」としての“プレーぶり”に重なる。

 ゲームの思考が現実に広がり、人を駒として見るのでは絶対にない。ゲームをクリアするために必須の合理性で、世界を良き方向へと導く手法を知り、学んで動くことを知らしめる。「マージナル・オペレーション」はそんな物語だ。


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