俺たちの

 デビュー当時の原稿料が6000円で、今がその4倍だったらだいたい2万4000円。隔週刊誌と月刊誌の連載が2本で、単行本が年に3冊という、そこそこな漫画家の福地正秋がいったい、どれくらいの年収を得ているのかを、想像しながら漫画家の道は厳しいなあと感じ取る、一種の“漫画家漫画”の1本として、きくち正太の「俺たちのLASTWALTZ1」(日本文芸社、590円)は読んで楽しく読めたりする。

 武蔵小金井の駅から徒歩15分のところに、25年ローンながらも中古で1戸建ての2世帯住宅を買い、妻と子供2人を養って暮らしていける経済力は、同じ48歳程度のサラリーマンと比べて、それほど差があるものではない。何人かのアシスタントを雇っていても、先生と慕って服従してくれる訳ではなく、得意だと自慢しながら描いたミニクーパーが人物に比べて巨大だったとしても、こんなに巧く描けたんだからキャラの方を描き直せば良いのにと、仲間内で愚痴られる始末。少なくとも部下は部下として動いてくれる、中間管理職のサラリーマンより気持ち的には下かもしれない。

 もっとも、ずっと家にいて仕事ができる、というのはサラリーマンにはない漫画家の特権。仕事は仕事としてこなしながらも、傍らに趣味のギターを置いて眺め愛で、合間に手に取りつまびくことで日々の憂さを吹き飛ばし、思いっきりギターにのめり込んだ学生の頃に気持ちを戻せる……かというと、そこにはむしろ家だからこその問題が。アシスタントは帰っても、家族がいては受験勉強だ何だと騒音を気にして、父親の趣味すら赦してくれない。畢竟、足下に置いたアンプにヘッドホンを差して耳だけでサウンドを聞くそのプレーに、全身で音圧を味わいラリー・カールトンの気分へと身を浸す興奮は訪れない。

 漫画家も案外つまらないのかなあ。なんて思い始めたところにやってくるのが、編集者を介して儲けられた他の音楽好きの漫画家や、関係者たちのスタジオでのセッション。サラリーマンをしていて、会社と家とを往復しているだけの日々では得られないネットワークには、クリエーターらしく音楽に親しむ人も少なからずいそう。そんな人たちと音楽で語らうチャンスを得られたのはやはり、漫画家だったからと言って言えなくもない。

 もちろん断る話ではない。家では出せない音を思いっきり出してギターを弾きまくれると、学生時代にアルバイトをして買った、愛蔵のギブソンES−335DOTチェリーレッドを担いでスタジオへと乗り込み、かつてオールマン・ブラザーズ・バンドに憧れギターを始め、紆余曲折の音楽遍歴を経て漫画家なっても残ったラリー・カールトンへの敬愛を、全身で表すチャンスだと勇んでスタジオへと乗り込んだ福地正秋は、そこで出会ったギター担当のデビッド寺内という男性や、ベースを弾いた人気漫画家の八木沢たかしらとのセッションを通して、飾らず気張らないで音楽にのめり込む喜びというものを思い出し、取り戻して高めていく。

 ギター好きではない人や、音楽に詳しくない人は、解説キャラクターのドミナント・ペペコというグラマラスな美女や、福地自身によって繰り出される楽器や音楽やミュージシャンに関する蘊蓄を、読んでそのまま理解し納得して楽しむことは、少し難しいかもしれない。絵や文字や楽譜やコードで示されても、そこから頭に音楽が浮かんで流れてくることがないからだ。それでも、濃密過ぎる情報からは、音楽というものが持つ奥深さが浮かび上がって漂うし、丁々発止のごとにやりとりされるセッションの緊張感から、音楽にのめりこんでこれを自分のものにする楽しさが伝わってきて、いつかその境地へとたどり着きたいと思わせる。

 セッションの濃密さ、そこから漂う音楽にのめりこむ楽しさへの誘いが詰まった後半とは少し違って、前半には福地正秋が学生時代にどんな感じにギターにハマっていったかが描かれる。本当だったらオールマン・ブラザーズ・バンドに憧れ、ギブソンは無理だからとコピーモデルのグレコのレスポールを買おうとしたのが、なぜかラージヘッドの白いグレコのストラスキャスターが届いてしまい吃驚仰天。返却しようにも家族の歓喜で返すに返せないまま弾いていたら、そんなストラトで世界に名をとどろかせたジミ・ヘンドリックスに雰囲気が似ているからと、高校の軽音楽部でコスプレをさせられ、ジミヘンのようなプレーを強いられ今に引きずるトラウマになる。

 本物のきくち正太が果たしてジミヘンに似ているのか否かは不明ながらも、あの時代に寵児でもあったジミヘンの真似をして、好評を得るのは端から見ればなかなかなに羨ましいこと。想像するならそうしたプレーを見せながら、ただ格好だけと言われないくらいの腕前を、つまりはジミヘンのあのプレーを再現できるくらいのギターの技術を、福地正秋のモデルとおぼしききくち正太は持っている、ということになる。これは是非に聴いてみたいし見てみたいところ。果たしてその実態やいかに。

 48歳になって甦ってきたセッション熱を、発散させ満足させる福地正秋の姿を見れば、何かをずっと我慢しながら何十年かを生きてきた大人も何か、これを機会にやってみようと思えてくるはず。もはや家では楽器を奏でる場所がないという人も、登場人物のひとりが週に1回ギター教室に通ってそこで、昔とった杵柄を発散させている姿にヒントを得て、場所を探してみるのも悪くない。何もやってなかったから、今さら何にものめりこめないと思うなかれ。これからだってまた続く人生に、あるいは明日終わるかもしれない人生だって、始めて遅い時なんてない。思い立ったらその時が絶好。行けよお茶の水へ。買えよテレキャスター。いや自分、山下達郎のファンなんで。


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