九龍ジェネリックロマンス

 いつの頃からか名前は知っていたし、イメージとしても例えばジャッキー・チェンの映画だとか、池上遼一の漫画「クライング・フリーマン」だとかに登場する、香港にある暗黒街ともスラムともとれそうな建物群が、すぐに頭に浮かぶくらいには「九龍城砦」のことは知っていた。ごちゃごちゃとしていて猥雑で、犯罪の香りを漂わせながらもロマンを感じさせる佇まい。魔窟とも魔界ともとれそうな九龍城砦に惹きつけられた人が大勢出るのも当然だ。

 1997年にソニー・ミュージックエンタテインメントから発売されたプレイステーション対応ゲーム「クーロンズゲート」もたぶん、そんな九龍城砦のイメージに魅せられたクリエイターがいて、舞台にしてみたいと思い作り出したものだったのだろう。映画「ブレードランナー」に描かれた、東洋と電脳とが結びついたビジョンも取り入れたかったのかもしれない。

 押井守監督によるアニメ映画「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」のイメージとも重なるが、1995年公開の映画が出た頃にはすでに「クーロンズゲート」の開発は始まっていたから、同じビジョンを共に問い入れて至った異なるアウトプットの形とも言える。そんな「クーロンズゲート」や「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」もまた、後生に影響を与えて新しい九龍城砦のイメージを現代にもたらしている。

 マンガ大賞2021の最終候補作にノミネートされた10作品のうちのひとつ、眉月じゅんの「九龍ジェネリックロマンス」(集英社)シリーズもそんな、「クーロンズゲート」を経て引き継がれたミームが生み出した九龍城砦のビジョンであり、同時に「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」が受け継ぐ現実と虚構の曖昧となった状況を、それと感じながら生きている人たちに立ち位置を、改めて感じさせる作品だ。

 空にジェネリックアースなる地球のレプリカが浮かぶ世界。昔ながらの佇まいを魅せる九龍城砦にある不動産店「旺来地産公司」に勤める32歳の鯨井令子は、住まいを探す人たちの相談にのる仕事をしながら毎日を平坦に送っている。事務所には支店長がいて34歳の工藤発という先輩がいるくらい。その工藤に連れられていく昼食はいつも同じ中華料理店といった具合に、とりたてて浮いた話もないまま進んでいた日々に変化が訪れる。

 工藤が4年前に日本から九龍城砦に来た時、事務所には2歳年上の先輩がいた。名前は鯨井令子で顔立ちも含めて工藤の2歳下の鯨井令子とまったく同じ。仮に鯨井Bとする先輩の鯨井令子はいつも同じ中華料理店で水餃子の昼食を摂っていて、そんな鯨井Bに工藤は心を寄せていたようだった。けれども何かがあったようで鯨井Bはいなくなり、そして鯨井令子が入って来て工藤の下で仕事をするようになった。

 工藤は鯨井Bとそっくりの鯨井令子が来たことに対して何も言わない。支社長も疑わず説明もしないでそのまま普通に受け入れる。どこかシュールでミステリアスな状況が、どうして普通に起こっているのか、といった興味をそそられる。ジェネリックという、薬なら成分はまったく同じながらも別ブランドから出されたコピー品を意味する言葉がタイトルにあるように、この世界はそうしたクローンによる再生体が自然と日常に入り込んでは居座り、入れ替わっていくようになっているのかもしれない。

 客観的にはそれで良くても、当人たちにとっては不思議な居心地がしてならないだろう。工藤を鯨井令子はとても好ましく思っている。けれども工藤が好意を抱いているのはそっくりな鯨井Bの方。そっくりだからといって同じような好意は得られず、むしろ違うんだと否定までされてはやはりいたたまれなくなる。自分はいったい何者なんだと考え込んでしまっても不思議はない。

 そんな鯨井令子に陽明という名の新しくできた友人は、全身整形をして昔と変わってしまった自分を否定する誰かがいたら、「それは私じゃない」と否定すると言い、「どれが私で私じゃないかは私が決める。」と言って「それでよくない?」と諭す。自分は誰かの代わりなのかもと迷わず、自分は自分なのだと信じて生きればいいのだと教えられて、鯨井令子の不安も少しは晴れただろうと思いたい。

 とはいえ、鯨井令子に限らず似たような事例が相次いで起こっている九龍城砦には何かありそう。鯨井令子に強い関心を寄せる製薬会社の若き社長は、クローンはほくろまでは再現しないと言い、そして鯨井令子には鯨井Bと同じ位置に同じ形をしたほくろがあったりする。もしかしたら、単純に記憶を失っただけかもしれない。あるいは個人レベルで存在が過去へと巻き戻るような事態でも起こっているのかもしれない。世界そのものがリアルではなくバーチャルな中でリセットされたりリスタートさせられたりしているのかもしれない。

 そうした、SF的な関心も浮かぶ「九龍ジェネリックロマンス」という物語。とはいえやはり中心は、自分の思いを強く確かなものへと高めて、ひとりの女性が生きていく居場所を得ようとするストーリーにありそう。その結果として工藤と結ばれるのか。その先にいったい何が待ち受けているのか。4巻まで来てもほとんどほとのど見えない展開が、少しずつでも明かされていくのを見守りたい。


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