きょうのできごと

 日記は本来自分のことを綴るもので、だから1人の人間の日記を付け始めた時から付け終わった時までの生活を克明に辿ることはできても、その人間が出会った人の生活は辿ることは難しい。よほど日記に出会った相手の事を詳しく記していても、圧倒的に多い会っていなかった時間はそれこそ相手の日記を読んで辿るより他にない。

 日記が日記帳に筆で書かれ鍵のついた引き出しにしまい込まれている時代はなるほどそうだったかもしれない。しかし日記が大量にぞれこそ数万人、数十万人の規模でインターネットのホームページ上に公開されている今は、1人の人間の生活の記録を辿りながらリンクによって別の人間の生活の記録をもたどれる時代が現実のものになっている。

 記述してあるすべてが真実かどうかはこの際おいて、たとえば同じようにネット上に日記を発表している数人がある日いっせいに集まって騒いだとして、そのことをそれぞれの日記上に書いて相互にリンクを張った時、共有した時間で連結されたそれぞれの人生を起点に出会うまでのそれぞれの人生、出会って以後のそれぞれの人生を読者は遡り、あるいは下って辿ることが出来る。そして気付く。人にはそれぞれに人生があって、それがときどき重なりあっているのだということに。

 自分がその中の1人の書き手となった場合でも良い。昨日の楽しかった1日を共有した彼ら、彼女らが暮らしてきたこれまでと暮らしていくこれからが、昨日の楽しかった1日を起点にして自分と結びついているように感じることができるだろう。彼ら、彼女らの人生と決して併走できる訳ではないけれど、この同じ時間を過ごしているのだということを、決して1人で生きているのではないんだということを、わずか1日の出来事をクロスポイントにして、感じ続けることができるだろう。

 3月24日夕刻から3月25日未明にかけての時間を共有した人たちが、それぞれの立場でそれぞれの思いと経験を綴っっていった柴崎友香の連作集「きょうのできごと」(河出書房新社、1300円)を読んだ時にまっさきに思いついたのが、重なり合ったり離れたりしつつも同じ時間を過ごし進んでいるインターネット上の日記たちだった。

 自分に人生があったように、またあるように、昨日出会った人たちにもまた人生があり、またあるんだということをインターネットの日記たちは物語る。同じように、正道さんという男の大学院進学に伴う引っ越しを祝う宴会に集まった各人が各様から見て感じたことを綴った連作から、1人で生きてはいるけれど、同じ時間を生きている人がたくさんいて、時にはその生活が重なり合うこともあるんだということが感じられて、読む人と何となく嬉しい気分にさせてくれる。

 正道さんの家を出て3月25日の午前3時に京都から南へと伸びるハイウェーを走る車の中で目が覚めたけいとが、車を運転している高校時代からの知り合いらしい中沢と話す「レッド、イエロー、オレンジ、オレンジ、ブルー」で綴られるのは、後部座席で寝ているのが中沢の彼女の真紀というなかなかに複雑そうな関係ながらも、刺々しくもないフランクな中沢とけいとの間柄。中沢がかねてから口にしながらも、実現した兆しの未だない自主映画のアイディアが再び繰り返されるエピソードに、微温な3人の関係が壊れずにこのままま続いていって欲しいという、誰もが願いつつ、実はとてもかなえることが難しいけいとの願望が滲む。

 3月24日の午後6時頃から始まった正道の大学院進学を祝う宴会での、今度は真紀が語り主となって綴られた「ハニー・フラッシュ」では、かわちくんという青年に話しかけるけいとの姿を眺めながら、うまくいったら良いとつき合っている中沢と話す真紀の友達思いの心情が描かれる。そんな真紀の心を知っているのかとぼけているのか、中沢は真紀の顔をじっと見て「真紀は、寝てる顔がいちばんかわいいなあ」と語りかけ、真紀はそんな幸せな時間が続いて欲しいと思っている。

 そのかわちくんには、別につき合っているちよという彼女がいて、宴会が始まる前の25日午後1時の動物園を舞台にした「十年後の動物園」で、かわちくんを語り手に彼のそれまでの生活が綴られる。誰にでも優しいかわちくんをちよは優しすぎると責め、挙げ句にその日夕方から正道さんのお祝いの宴会があるから串カツ屋にはいけないことをちよに告げると、ちよは怒って帰ってしまう。電話をかけても出てくれず、やっと出てもすぐに切られてしまう。

 そして正道さん。中沢を送り出し、酔っぱらった真紀のへたくそな鋏でバラバラな頭にされてしまった西山に言われて未明の街へと買い出しに出かけた正道が語り手となった「途中で」の中で、正道さんは高校時代の友人に久々に出会い、それから頼んでも宴会に来てくれなかった好意を抱いている彼女に電話をかけて、遊びに来ればと誘って「遠慮しとくわ」とやっぱりあっさりと断られ、鴨川べりに座って風に吹かれている。

 読みようによっては、重なり合っても結局は各人各様に別れていってしまう人生の残酷さを突きつける話ばかりとも思えて来る。中沢と真紀がつきあうならばけいとはいずれ2人の間からはじかれてしまう。かといってかわちくんにはちよがいて、けいとには多分手がでない。けいとが好意を成就させたときは今度はちよがはじかれる。正道さんはいつまで経ってもきっと電話の彼女とは結ばれないだろう。各人各様の人生は2度と重ならず離れて行くばっかりだ。

 それでも、というよりだからこそ憧れる。そして記憶に刻む。あの1日を。共有した時間を。拡散していく人たちも、「きょうのできごと」を拠り所にして結びついているんだという記憶があれば、たとえ離ればなれになっても自分が1人じゃないということを思い出せる。異国にいようと、別の誰かと結ばれようと、重なり合った時間を思い出しては楽しかった記憶に浸れる。そして今も誰かと時間を共有し、その楽しい思い出を離ればなれになった後にも持ち続けていられるんだということを肌で感じていられる。

 増え続けるインターネットの日記の書き手たちも、だからどんどんと外部との接点を増やしてみると良い。リアルな世界での邂逅を無理強いするものでは決してなく、例えば気持ちだけでのこの同じ空間の同じ時間を共有している誰かがいるんだということを確信するだけでいい。砂に水をまくような気持ち、大海を1人で漂うような寂しさなんて味わってる心のスキマなんて、ほら、すっかり消えってしまっただろう?


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