黒豚姫の神隠し

 緑川ゆきの漫画で、テレビアニメーションにもなった『夏目友人帳』では、妖(あやかし)と呼ばれる存在が、人間たちの暮らす世界に重なるように存在していて、時に悪さもすれば助けたりもする。人間たちの多くはそんな妖(あやかし)が見えないけれど、主人公の夏目貴志にはなぜか妖(あやかし)が見えてしまって、人間ごときにと怒った妖(あやかし)に襲われたり、逆に興味を持たれて慕われたりもする。

 たぶん、昔はもっと多くの人たちが、妖(あやかし)の存在を信じていて、そしてもっと見えたりしていたんだろう。だから交流もあって敬いもしていて、そうした痕跡が神社だとか巨木信仰だとかに残っている。けれどもいつしか信じる気持ちは薄れ、山々は切り開かれ巨木は倒され、妖(あやかし)たちは居場所を失ってどこかへと去ったか、あるいは信じてもらうことで得ていた存在の力を薄れさせていった。

 今、見渡してこの日本に、妖(あやかし)のような存在を日々、意識しながら暮らしている場所はほとんどない。それでも、日本にとっては南の方にあたる奄美大島や沖縄といった南西諸島の島々にはまだ、日常が異界と裏表のように結びついていていそうな場所がある。年始や盆といった特定の期間に限らず、日々に祭祀を欠かさないで神様や妖怪たちの存在を意識し続けている。

 そんな場所だからこそ、今にも何か起こりそうな気持ちにとらわれる。もしかすら起こっているのではないかとすら思わされる。もちろん、この現代において日本列島だろうと南西諸島だろうと、そして南米のジャングルや北米の荒地だろうと科学の名において不思議なことが起こっているはずはない。ないけれどそれでも、起こっているかもとしれないと思わせる風土がそこにはある。

 カミツキレイニーの『黒豚姫の神隠し』(ハヤカワ文庫JA、740円)に紡がれる不思議も、そんな南西諸島が舞台だからこそ、本当にあることなのかもしれないと感じさせられる。沖縄本島より遙か南に位置する宇嘉見島に、東京から転校してきた波多野清子という名の少女は凜として美しく、歌も巧くて島生まれの中学男子、ヨナを虜にする。彼女を主演にジュディ・ガーランドがドロシーを演じた『オズの魔法使い』を撮りたい。そう決意させる。 BR>
 さっそく希望を伝えようとするものの、学校でも浮いた存在でいる清子からはけんもほろろの対応を受ける。それでも諦めないでつきまとい、ひとり帰宅の途にあった清子をみつけて後をつけると、学校では食事もとらないでツンとしていた清子が、人目に付かない場所では買った菓子を美味しそうに食べていた。その表情にヨナはやっぱり彼女しかいないと思いこむ。

 そんな清子を手にしたカメラで撮影していたところを見つかり、これも学校では見せないすごい形相で追いかけられもしたヨナ。どうにか逃げ切って再生した映像を見て、ヨナは清子が得体の知れない黒い存在にまとわりつかれていることに気づく。そしてヨナは清子から自身の秘密を告白される。「私は黒い豚に呪われている」と。

 宇嘉見島には人の穢れを食らい続ける黒豚の悪神ウヮーガナシーの存在が信じられていた。時に人を神隠しに遭わせ食らうとも言われているウヮーガナシーと清子との間に何かあったのか。渦巻く疑惑の果てにヨナは、かつてあったひとつの悲しい出来事を知り、清子がその出来事ゆえに人前で食事も出来ない身になっていると知り、そんな運命を振り払うためとてつもない冒険に出かけようと決意する。

 ボーイ・ミーツ・ガール。南西諸島という神様が今もいて生活に寄り添っていそうな場所ならではの伝承に絡め、少年の思いと少女の願いを描き、その裏側にある哀しみと後悔を描き、それでも前向きでいたいと願う気持ちの尊さを描いていく。清子から最初に告白された秘密に浮かぶ驚き。その先に浮かぶ大きな秘密に対して抱く、悔しさと悲しさも混じった驚きをどう受け止めるべきか。読み終えて誰もが迷いそうだ。

 そのままで良いのか。そのままそこに居て、居させて良いのか。それはやっぱり間違っているのではないか。なぜなら……。渦巻く疑惑と困惑が、清子という存在を苛み、周囲にいて真実を知った者たちを振り回す。もっとも身近な存在が抱く感情を想像すれば、やっぱり身を引くべきかも知れない。そんな意識も生まれて来る。

 けれども、今そこいる僕たち、私たちこそが確実にそこにいて、これからも居続ける。当たり前のそんな事実に改めて気づくことで、今いる僕たち、私たちがどうしたいのか、どうしていくべきなのかを問い直して、歩み始める。『黒豚姫の神隠し』は、そんな気づきを与えてくれる物語になっている。

 辛いかもしれない。恥ずかしいかもしれない。けれども僕たち、私たちは今を生きている。それならば明日も生きていこう。その次の日も。命ある限り。


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