クジラの子らは砂上に歌う5、6

 「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」

 ポール・ゴーギャンが、故郷のフランスを遠く離れたタヒチで描いた1枚の絵につけたこの題に、様々な思いが込められいているだろうことは想像に難くない。

 流れてたどり着いた地に住まい、画家としての己を振り返りつつ、遠くはない死の訪れを感じながら、浮島のように根を持たない自分の今を見つめ直そうとしたのかもしれない。我々という総称をそこにつけることによって、時代の変化に押されながらも踏みとどまろうとして果たせず、苦悶しながら未来へと流され、変わっていく人間と世界を思って、そんな言葉を綴ったのかもしれない。

 ひとつの場所に留まり、大きな変革など訪れないまま日々を過ごし、月々をこなし、年々を重ねていくだけの暮らしだった時代には、人は多分、どこから来て、何者で、そしてどこに行くのかといった思いにとらわれることはなかっただろう。世界が開け、動きが激しくなったからこそ人は、己の過去と今を見つめ直し、未来を考えるようになった。そこには不安も宿るだろう。けれども希望の光も射す。先にどんな困難が待ち受けていようとも、さらに先に来る幸福のために人々は変化を受け入れる。

 砂漠を流離っていた泥クジラの上で、異能の力を持った印つきの若者たちが短命ながらも活発に働き、印がなく力を持たないものたちが統率を司ることによって、人々は平穏な日々を過ごし、月々をこなし年々を重ねていた。それが激変を迎え、帝国と呼ばれる勢力の襲撃によって、泥クジラの住人たちの少なくない者たちが命を失い、そして泥クジラがいったい何かを教えられた。隔絶された平穏は崩れ、大会の荒波にのみ込まれそうな中で、泥クジラの住人は自分たちがどこから来て、そして何者なのかを知った。

 梅田阿比の「クジラの子らは砂上に歌う」(秋田書店)というマンガ作品。泥クジラに乗って砂の海を彷徨う住人たちを原罪を負った者たちと誹り、殲滅しようと乗り込んできた帝国の襲撃を、少なくない犠牲を払いながら退けて後、迎えた第5巻、そして第6巻の中で泥クジラの人々は今、どこへ行くのかを自らに問おうとしている。

 遭難しかけ、砂の海を漂流していたロハリトという名の青年とその一行を拾い、尊大ではあっても横暴ではないロハリトの示唆も受けて、泥クジラは長く留まっていた砂の海域を抜け出して、新たな、そして初めての経験を積もうとしている。その道中に現れる不思議な現象。天空へと伸びる高い塔に住み、上を目指して登り続ける人物との出会いを通して、長い長い人々の営みからこぼれた残滓に触れ、その記憶を受け継ぎ経験を増しながら泥クジラとそこに暮らす人々は、今までとは違ったどこか別の場所、新しい場所へ行こうとしている。

 そこにはいったい何があるのか。背負わされた原罪をようやく払い、自由を得た泥クジラの住人たちに永遠の平穏は訪れるのか、それとも……。泥クジラという存在が人の生命を求める謎、そんな泥クジラから浮かんで人を惑わす存在の目論み、いずれも未来を安易に平穏なものとはさせない可能性をはらむ。

 印を持つが故に泥クジラでは短命の人々が、どうして短命なのかに気付いてしまってもなお、泥クジラは今までのような印を持たない長命の者を指導者と仰いで、砂の海を進んでいくような振る舞いができるのか。力を背景に主導権を撮りたがる者も現れ、ひとまず抑えられたものの火種はくすぶり残る。悪霊と呼ばれる最強最大の力を持った存在も示唆されて、戦乱が起こる可能性は膨らむばかり。未来は明るいばかりではない。

 それでも泥クジラは行く。大勢の人々を乗せて。ポール・ゴーギャンの問いのうち、我々はどこから来たのか、そして我々は何者かを知ったクジラの子らが、どこへ行こうとしているのかを見定めることで、今、国家や経済といった強固な基盤を揺るがされ、曖昧さを増しつつあるこの世界を生きる自分たちにとって、どんな決意が、あるいは諦観が必要なのかが分かるかもしれない。

 だからこそ今、第6巻まで出た「クジラの子らは砂上に歌う」を読んでおくべきだ。絶対に読んでおくべきだ。読むことで知るだろう。圧迫に甘んじず、変化を受け入れ進むことの大切さを。傷つけ合うだけで無く慈しみ合いなあら、異なるも同じも構わずに受け入れて歩む尊さを。


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