光源

 自分では太陽のように輝いているように思っていても、実は月のように他からの光によって輝かされていたりするもの。自分はスターなんだ、自ら輝いているんだと過信すると、いつの間にか光の当たらない舞台の隅へと追いやられ、闇の中に置き去りにされていることがある。

 本当に内部から光があふれている、正真正銘の「スター」がいない訳ではない。一時代を築き上げた「スター」は、その瞬間だけ見れば真昼の太陽のような輝きを見せてくれる。けれどもしょせんは恒星のような100億年の寿命などない人間、何年か長くても何10年の年月が過ぎれば、光の元になっていたエネルギーは尽きてしまう。

 むしろ自分は月なんだ、誰かから光を与えられ、輝かされているんだということを自覚して、共演者なりスタッフなり観客なりから放たれる光を吸収し、跳ね返しつつ、輝く太陽に見せかけるくらいのしたたかがさを持っている方が、例えまがいものであっても、「スター」として長く輝いていられるだろう。

 とはいえ、10年に1人ではない、文字どおり”月並み”な「スター」だからといって、「自分は月だ」と公言する人はいない。自分だけは太陽なんだ、輝いているんだと信じたがっているもの。そんな「自称・太陽」たちが集い、世界に向かって輝きを放とうと懸命になる姿が、映画業界を舞台いした桐野夏生の「光源」(文芸春秋、1619円)の中に描かれる。

 アメリカへの留学経験があり、一流の腕を持ちながら現在は仕事にあぶれている撮影監督・有村のところに、かつて付き合っていたことがあり、撮影監督と別れて老映画監督の妻の座を選んだ女性プロデューサーの優子から仕事が舞い込む。大学の映研から出てきたばかりの新人ながら、優れた脚本を書いて来た映画監督・薮内三蔵のデビュー作品に参加してくれとの内容で、現場には彼女の仕事がきっかけになって一流の仲間入りを果たした男優の高見と、元アイドルで女優へと転身した井上佐和が集められる。

 優子は有村に、新人監督なのでそれとなくサポートして欲しいと頼む。しかし若さから来る情熱と、それとは裏腹にある経験の乏しさから自分の感性に正直過ぎる素人監督にとって、プロの経験に裏打ちされた助言であっても、有村の言葉は自分を小馬鹿にしているようにしか聴こえない。自らの輝きで周囲を照らしているのだと信じ切っている。

 一方、ようやく一流の仲間入りを果たしてカンヌ男優の可能性も信じられるようになった高見からすれば、監督の思いつきによる演出プランや、自分を憎むようになった老映画監督を見返したいという女性プロデューサーの起死回生への思惑によって無理な演技を強いられ、自分の築き上げて来たものを壊されるのはたまらない。自分の輝きが共演者にさらわれることが確実な演技を黙って受け入れられるはずがない。佐和も佐和でアイドルから女優、そして映画製作者へと進むために、輝きをその手に入れようと手練手管を繰り出してくる。

 才能を信じた人びとから放たれる光が乱反射して、まぶしいばかりに煌めく撮影現場。その光源となっている人物は誰なのか。最後にスポットライトを浴びて人生のステージに立つのは誰なのか。激しいつばぜり合いの果てに、輝きを放ち始めたように見えた勝利者が、その心に抱えた闇を照らし出す存在へと走るラストシーンに至って、太陽なんて存在しない、あるいはそれぞれが少しづつ太陽で、すこしづつ月で、放った光を吸収したり跳ね返したりしながら、瞬間の輝きを得ては消え、再びの輝きに向かって宇宙を回りつづける存在なのだということが見えて来る。

 過信してはいけないし、かといって消沈も禁物で、自分を輝かし、人を輝かせる、そのあたりの塩梅をうまくこなしていきさえすえれば、人生を平凡であっても静かに生きていける。それが分かってなお、一瞬であっても世界に輝きを放つ魅力には抗しがたく、人間は光を一身に集め、ひときわ明るく輝こうと躍起になる。波瀾万丈であっても人生は楽しい方がいい。

 本当は月だろうと関係ない。見せかけの太陽であってもいいじゃないか。醜悪と謗られようと懸命に突き進む姿だけが、人を眩しがらせることができるの。「光源」の登場人物たちのそんな姿を、読む人は目を瞬(しばたた)かせつつ堪能しよう。


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