鼓笛隊の襲来

 エミール・ガレのガラス器が持つ、透明でいて温かみがあって、どこかに不思議さも漂わせた存在感。そういったニュアンスを持ち始めたと言って言い過ぎではないほどに、絶妙の巧さが全編に漂っている。そしてそんな巧さを、ひけらかしではなくほのめかしでもなく、自然ににじみ出るようにしているところに、三崎亜紀が最新短編集「鼓笛隊の襲来」(光文社、1400円)で見せた成長を感じ取れる。

 となり町どうした戦争に陥るという「となり町戦争」では、設定のシュールさに依りすぎた部分があって、渦中に置かれた人々のドラマが書き割りのように見えてしまった。筒井康隆が放った世間の矛盾を撃つ毒も、小松左京のような社会の仕組みを露わにする力も、星新一のような心の隙間を切り裂いて気づかせる刃も、あるようでいてぼやけていた。つまりはどこか浮ついていた。漂っていた。

 しかし「鼓笛隊の襲来」では、収録されたどの短編もしっかりとした土台があって、上滑りしたり下心を見透かされるようなところがない。例えば表題作の「鼓笛隊の襲来」は、おばあちゃんの知恵、といったものをないがしろにしがちで、文明の利器に頼りがちな日本人の風潮を風刺した作品だ。

 襲来しては音楽を響き渡らせ、聞いた人々を隊列へと誘い彼方へと連れて行く鼓笛隊。台風に匹敵して、いやそれ以上の恐怖すら与えることもある“災害”を想定してみせることで、平凡な日常に暮らしている人たちの心に不思議な感じを醸し出す。

 もっともそれだけなら設定のシュールさに止まる所を、やんわりとしてほんのりと、年長者への敬意と自然への畏敬の念を展開の中から浮かび上がらせている。だから読んでいてい押しつけがましさ、鬱陶しさがない。

 「象さんすべり台のある街」も似た印象の作品だ。よくあるコンクリート製の滑り台ではなく、生きた本物の象が滑り台代わりに置かれた公園で起こる交流が、死と生への達観めいた感覚を与えてくれる。像が人間の言葉を話すことへの違和感もあまりない。

 自分を新たな自分に変えて生きていくために、覆面を被ることが認められた社会が舞台になった「覆面社員」。まず絶対にあり得なさそうな事柄ながらも、あって不思議はないかもしれない事象を構築してみせ、その上で起こり得る事態を描き、なおかつそれがどういう心理から起こり得たのかを推察して、ひとつの社会の形として作り上げてみせる。実に鮮やかな手並みだ。

 ラストに提示される、被った仮面を当たり前と見なしてくれるようになってから、その先に再び起こる状況への不安感と、未来への不透明感が、いくらチェンジしようとも、その度に壁が生まれる現実世界の生きづらさを感じさせる。もっとも、だったら何度でも新しい覆面を被って自分をリセットすれば良いだけなのだが。重要なのは諦めないこと、なのかもしれない。

 バランス感に優れ、透徹感を漂わせる短編がつまった「鼓笛隊の襲来」は、「となり町戦争」「バスジャック」「失われた町」と綴ってきた三崎亜紀にとって、ひとつの到達点になっている。問題はここから先。よりシュールな方向へと傾けば、文学へと行き過ぎてメッセージが伝わりにくくなる。かといってドラマに傾いても、筒井康隆の前衛性と重なってしまう。

 そうではない、三崎亜記だけの道というものを見つける旅がこれから始まる。「バスジャック」もこの「鼓笛隊の襲来」も含めて、どちらかと言えば短編に冴えを見せる作家といった印象が強くなっているが、得たバランス感覚と独特の世界観を、「失われた町」のような長編の上でどこまでで発揮できるかに、今は注目していたい。


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