恋ケ淵百夜迷宮
こいがふちひゃくやめいきゅう

 キャラクターさえ立っていれば、そしてお話しさえ面白ければ、あとは考証が多少違っていたところで構わない、といった声がエンターテインメント系小説の分野では時おり聞かれるけれど、それはあくまで便宜上のこと、考証にこだわるあまりに面白さが減殺されては何にもならない、という気持ちから出て来るもので、キャラクターが立ちお話しが面白く、そして考証も確かなものであるならそちらの方がより素晴らしい。

 主に児童文学の分野での活動歴が残るたつみや章の「恋ゲ淵百夜迷宮」(角川ビーンズ文庫、457円)などはまさしく、キャラクターの立ちっぷり、お話しの盛り上がりっぷりに加えて江戸の暮らしの雰囲気が、暮らしている人の体温とか息遣いまで含めて感じられて、読んで面白い上にとても勉強になる。届く市場が限定されているという意味でヤングアダルト文庫の限界を言うならば、一般が手に取る時代小説の分野で出てもそれほどの違和感なく、読者に受け入れられたかもしれない。

 舞台は江戸、札差屋という今の金融業の大店で手代として働く竹二が3番番頭から推挙されて赴いたのが松太郎という若旦那の部屋。暇をとる番頭の代わりに若旦那の目付役になってくれと大旦那から言われて赴いたものの、この松太郎なかなかに奇妙なところを持っていて、出かける時には柳行李に衣装の替えを一そろい入れて出かけるし、屋敷に出入りしている猫の梅吉が実は猫又で、ふだんは侍の梅沢という名と姿になって取引先との交渉役として働いてもらっていると言うから驚いた。

 あるいは竹二をからかっているのかもしれないし、恐がりだと思って脅かしているのかもしれないが、正直なところは竹二に分かるはずもなく、大旦那のいいつけどうりに不可思議な言動を繰り広げる松太郎に背くとこなく、松太郎が出向けば行李を背負って付いて行き、狐に汚されたという松太郎の着物の代わりを行李から出して松太郎に渡したりしていた。

 そんなある日、松太郎と立ち寄った腕の良い二八蕎麦の主人が濡れ衣を着せられ獄につながれる羽目となる。聞くと「鯉ケ淵」で溺れ死んだ男を危めたのがこの蕎麦屋の幸助だったというが、親孝行で働き者の彼がそんなことをしでかすとは松太郎にも竹二にも思えない。調べるうちに怪しげな美女が幸助の周辺に浮かび上がり、その怪しさ故に竹二とそして松太郎は幸助を助け出す必要に迫られ、梅吉であり梅沢も巻き込んでの一大事へと進んでいく。

 奇妙なものが見えてしまうが故に不思議な言動を繰り広げる松太郎と、不思議なものを払う力を持ちながらもまるで感じることができない堅物の竹二との、一方は訳知りでもう一方は何も分からない状態での噛み合わないやりとりの妙が良い。札差屋の業務内容や奉行所の仕組みといった細かい部分でしっかりと史料に基づいた描写がしてある点も好感が持て、読んでいて江戸の空気が身を包む。

 奢られた蕎麦1杯に400両で礼を返して良しとする大店の旦那の粋ぶりには、この世知辛すぎる世の中を鑑みて溜飲が下がる。そんな賑やかなエピソードを散りばめながらも、惚れた相手への想いを一途に貫く女心のすさまじさ素晴らしさ、他人を想い母を気遣い我欲を滅して運命に身を委ねようとする男心の強さ美しさをしっかりと描き出す物語としての筋の通しぶりにはただただ感嘆する。

 希望を言うなら竹二には、松太郎とは違った認識と価値観を堅持してもらっい、凡人の立場から不可思議な世界を垣間見てあたふたする姿を反面教師的にして楽しみたかった気もするが、松太郎と同じ立場になってしまった以上はこれからは、諦観の松太郎に熱血の竹二、傍観の梅沢といった三者三様のキャラクターが織りなす江戸の町を舞台にした、ファンタジックで人情味あふれる物語を読ませてくれれば有り難い。名付けて「松竹梅」シリーズ、これは期待できる。

 追加で言うならこの作者、児童文学ではそこそこながら別ペンネームでヤングアダルト向け文庫の世界を席巻している現役も現役の人気小説家、だったりするがそれはそれ、あまり聞かない名前の作者が江戸を舞台に面白くってためになる小説を書いたということで、先入観なしに広く手に取り読んでもらえればこの名で出した作者も、おそらくは本望というものだろう。


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