声だけが耳に残る

 「身も蓋もない女だな」−山崎マキコの「声だけが耳に残る」(中央公論新社、1600円)を読み始めてきっと、誰もが抱く感情だろう。

 その女、椎貝加奈子はアルバイトで採用されたゲームソフトの会社で、美少女恋愛ゲームというかいわゆるエロゲーのシナリオを書いて大ヒット。続編も人気になったもののそこはアルバイトの身の哀しさか、権利はなくもちろん金は入らず、ただ利用されるだけの生き方に嫌気がさして退社し、今は親から仕送りをしてもらいながら1人、風呂なしアパートに閉じこもって生きている。

 それでも外に出で行き他人と出会うだけの社交性は残っていて、ネットの掲示板で知り合った「閣下」と呼んでる男性に、呼び出されてはSMのMとして叩かれたり縛られたり吊されたり捻られたりしている。

 とはいえ閣下にひたすらいたぶられ続けるだけの、か弱いM女といった感じではなく、乳首を閣下に捻り上げられては「ギャー」と大声で悲鳴をあげつつ、「乳首だけは、男性のタマタマと同様、鍛えようがない。いまので何本かまた乳腺が切れたと思う」と夜に来る痛みの心配をめぐらせる。

 さらには風呂なしアパートに帰って尻を見て、「切れてしまった。痔が、イボ痔がまた切れてしまった」と叫ぶ身も蓋もなさ。否、「(今日の便秘はごっつい怖かった。先っぽまでで血得るのに1時間たっても出せなくて、このまま一生、クソばさみのまま生きていかなくてはならないのかと思った)」というから、むしろミがフタになってるというべきか。

 ともあれ冒頭から続く、あからさまで人によっては下品と思う描写を浴びせられ続けるうちに、これはきっと身も蓋もない女の細腕繁盛記であって、下品な中にしんみりとした展開も入れて、読む人の気持ちを楽にする物語と思える人も多いだろう。

 が。予想を違えてというか、これが作者の本来の意図だったのだろう、加奈子のあからさまな性格の下に実は、育った中で形成された痛くて辛い記憶があって、それが今の未来に希望を抱けない生き方につながっていたことが明るみに出て、これは笑ってばかりいられないと身を律せられる。

 なぜか興味を持ったDVすなわちドメスティック・バイオレンスの被害に悩む女性たちが集まるシェルターへと出向き、そこで自分はACつまりはアダルト・チルドレンなのかもしれないと知り、今度はACばかりが集まる会合へと加奈子は出向く。そこで同じACの集会に出ようとして立ちくらみを起こしていたケイという男と知り合いになる。

 加奈子以上に親との強い確執があって心に深い傷を負い、入院して退院したものの仕事には行けず今はガラクタに囲まれた部屋にケイは、半ば引きこもって暮らしている。触ると壊れそうな性格のケイ。表向きは豪快極まりない加奈子。正反対な性格のように見えるけれど、心の内奥では重なっている部分も多い2人が、傷を埋め合い心を通わせようとする展開に、この複雑極まりない世の中を、人が感情にストレートに生きていくことの難しさを感じさせられる。

 なおかつただ傷を舐め合い、連れだって破滅へと向かう2人の姿へと続ける、ありがちな悲劇的展開を否定しているところがこの物語のすごい部分。ケイとは違う男性という新たな要因を加えることで、ケイとの傷を舐め合う関係へとは加奈子を逃がさず、逆に加奈子の心理を堕落と惰性の快楽へと誘い、加奈子との出会いによって安定しかかったケイの気持ちにも揺さぶりをかけ、物語に混乱を与えて先への期待と不安を抱かせる。

 とはいえ、繰り出される悲惨な物語にページを繰る手が戸惑いにとどまることはない。なるほど悲惨な展開には違いないけれど、加奈子の上っ面の豪快さ、あからさまぶりは最初から最後まで読む人の興味を引っ張り続け、笑わせ続けて深淵へと引きずり込まれる手前で気持ちを押しとどめておいてくれる。このバランスの絶妙さに、書き手のただ者ではない部分を感じる。

 「生きよう生きねば生きるのだ」−帯にある言葉もそのままに、どうであっても地べたをはいずってでも引きこもったままでも、「生きるのだ」という気分にさせてくれる物語。パワーと呼ぶには足りないかもしれないけれど、後ろ向きだった気持ちを治し、前を向いて足を進めようとする気持ちにはさせてくれる物語。読んで奥底に抱えている悩みをえぐり出そう。癒して明日をその手にたぐりよせよう。


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