つのだじろうや楳図かずおや古賀新一の漫画を、夜眠れなくなるのを承知でビクビクしながら読んでいた。パタパタという足音とともに配達される恐怖新聞、ミイラ先生に赤ん坊少女タマミちゃん、アルミの弁当箱の中にあふれるほど詰め込まれた青虫などなど。絵によって見せつけられる恐しい場面の数々が、おおぜいの子供たちの脳天に、強烈な印象を植え付けた。

 テレビでは心霊写真の番組や、恐怖体験の再現フィルムが、夏になるたびに流されていた。おどろおどろしい音とともに放映されるテレビ番組は、サウンドとビジュアルによって、ストーリーが持っている恐ろしさを倍加して伝えていた。

 そんな世代にとって、活字による「怪談」は本当に怖く映っているのだろうか。活字で「ギャー」と書かれた文字よりは、幽霊の登場に顔をひきつらせて、髪を逆立てながら「ギャー」と叫ぶ少女のシーンの方が、衝撃度は何倍も大きい。幽霊とか、妖怪とか、怪物とかはもはや、活字の上ではその恐ろしさのポテンシャルを、昔ほどには発揮できないのかもしれない。

 けれども、恐怖の形はなにも幽霊や妖怪や怪物の姿をして現れるばかりではない。ごく普通の人間が、ごく普通の日常のなかで見せるちょっとした仕草、口調、行動が、別の人にとって十分以上の恐怖を与えることだってある。おどろおどろしい音楽や、どろどろとしたビジュアルでは現せない、活字によってかき込まれた人間たちの心理描写の積み重ねの中から、次第にわき上がってくる恐怖というものが、確かに存在する。

 加門七海の連作短編集「蠱」(集英社、1600円)は、古来から伝わる呪法をタイトルにしているだけに、陰陽道とか呪術とか風水とかいった、作者がこれまで得意としてきた分野を土台にした、おどろおどろしい場面が登場する話かと思っていた。しかし1読して、これは人間の内に潜む醜さを、呪術をトリガーにして顕在化させようとしている小説ではないかと思えてきた。

 プレイボーイの男に妊娠させられた挙げ句、捨てられそうになった女が、腹の中で飼った蟷螂で復讐しようとする表題作の「蠱」は、たしかに「巫蠱(ふこ)」という呪いを今に蘇らせて使ってはいる。ウゾウゾと這い出す小さな蟷螂の群の場面が、漫画やテレビによってビジュアル化されたら、さぞや怖いだろうと思う。だが小説では、むしろ綿々と綴られる女の男への底知れない執着心の方が、男の読者に果てしない恐怖を与える。

 「浄眼」もまた、劣等感のカタマリになった男が、ライバルの才能を憎む余りに罪を犯す話が、「浄眼」と「邪眼」という宗教的なガジェットと絡めて語られている。読んでいくうちに、自分の中にある劣等感が、なにかの拍子に爆発するかもしれないとういことに気付き、手のひらにじっとりと汗が浮かんでくる。

 全編を通じて登場している民俗学の教授、御崎の役割が、エコエコアザラクの黒井ミサ、恐怖新聞のポルターガイストほどには表立っておらず、ストーリーの転がし手としても、狂言回しとしても働いていないことに拍子抜けする。だが、御崎はあくまでも、人の心に潜む恐怖に、呪術的な彩りを添える役回りに過ぎない。人間の言動こそが1番怖い世の中にあって、呪術とか民俗学とかによって現象に説明を付けようとする御崎の態度の方が、むしろ安心感を与える。

 単行本化にあたって加門は、ある作品から次のセリフを削除してしまった。「空想は往々にして現実になる」。現実になるのが妖怪変化の出没ならまだあきらめようもあるが、人が人を憎む気持ち、人が人を妬む気持ちが肥大化し、現実化していく方が、生活と密接に関わっているだけに、何倍も、いや何10培も恐ろしい。

 「怪談を書くのは怖い」と加門はいう。「自分で怖くなってしまうからだ」とその理由を説明する。作品を練り上げていく過程で、作者が頭の中で練り上げる恐怖のシーンは、読み手が頭の中に思い浮かべるものの、何倍もリアルで身に迫るものなのだろう。


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