奇蹟の表現

 対立組織との抗争の果てに妻子を殺され自らも瀕死の重傷を負ったたヤクザ組織のボス・シマは、相手の組織を壊滅へと追い込んでも心は癒せず、組織を部下に譲り傷ついた体をサイボーグに変えて堅気になり、過去を隠したままとある修道院の門番として就職する。

 懺悔と祈りの日々がこれで始まると思ったところに、現れたのが以前の組織の男たち。何かを探しているようで教会にある孤児院の子供を脅かしていたところにシマはかけつけ、力にものをいわせて男たちを退ける。その争いの中で男たちはサイボーグが前のボスだと気付き、教会の門番をしていると知って、礼拝堂の中にあるかもしれないその品物を、こっそり探させてくれないかと持ちかけてくる。

 折しも街では子供がいなくなる事件が続出。どうやら移植するために臓器を抜かれて殺されているらしい。組織の話を断れば、修道院が世話をしている孤児院の子供たちに何が起こるか分からないと心配し、シマはかつての部下で事件の裏にいるらしいサカザキの元へと出向く。

 話し合いで子供たちへの危機は去ったかに見えたが、教会の司祭だった女性・カガミが殺害され教会の前に棄てられるという事件が起こって事態は一転する。サカザキの一味の攻勢も強まり司祭の死に怒った孤児の1人・ナツの暴走もあって、シマは痛んだその身を奮い立たせ、闘いの場へと舞い戻る。

 「第11回電撃小説大賞」で銀賞を受賞した結城充考の「奇蹟の表現」(電撃文庫、510円)は、ライトノベルというジャンルにしては珍しく美少女でもなければ少年でもなく中年男、それも元ヤクザで全身をイノシシに似たサイボーグ体に代えた男が主人公。読んで彼の活躍を自分のことのように感情移入できるのかと若い人は最初は戸惑うかもしれない。

 すっかりうらぶれた風体ながらも、心に義侠心を持ち続けているシマ。彼とは昔馴染みの情報屋で、今はシマの体を世話しているミクニ。かつて自分の家族を殺害し、元ボスにも瀕死の重傷を負わせた殺し屋と同じ遺伝子を持つクローンの殺し屋・ストウ。無頼に生きた男たちのキャラクターは、少年少女が読者対象のレーベルにあって極めて異色だ。

 けれども読めば年齢など関係なしに、誰かを失い何かを忘れられず悔やんで生きることの寂しさを感じるだろう。そしてもう誰も失いたくないと奮い立ち忘れないことを誇りに思う気持ちの大切さに気付くだろう。悩み苦しみながらも前を向き、足を踏み出し進むことの意味を知るだろう。

 シマやミクにやストウ、そしてカガミ司祭の切り立った断崖の縁を歩き続けるような生き様は、生きていくことの厳しさを教え、それでも生きていくことの素晴らしさを感じさせる。

 本編ではすれ違っただけに等しいシマとカガミ。この2人の間にもう少しだけ関わりを増やし、荒れた生活を棄てどん底からはい上がろうとしているシマと、高踏で純粋な信仰に生きていたはずなのに、いつしか信仰心が徒となって汚泥に足を取られたカガミという、対称的な2人を並べ間に未だ無垢なナツを置いて、人間の生き方の諸相を浮かび上がらせてみても面白かったかのしれない。

 カガミ司祭が命を賭してまで頑張る理由が”信仰”というものに支えられている点が、当然と言えば当然ながらも果たしてそこまでしなくてはいけないものなのか、といった疑念も浮かんで悩まされる。ならばカガミ司祭がそれほどまでに強い信仰を抱くに至った過去も、描いて欲しかったという気もしないでもない。

 そうすることによって、人間が決してきれい事だけじゃ生きていけない残酷さと、それでもきれいに生きて行きたいと願う心の気高さが、対比となって浮かび上がったかもしれない。もとのままでもその殉教的な生き様への感慨は十分に浮かぶ。けれどもあまりに殉教的であり過ぎるが故に感慨が類型的なものとなって、強い共感へとは広がらない。

 もっともこれは、うら若い女性を神への信仰心などという観念的なもののために、死に至らしめたことへの下心も混じった憤りでしかない。読めばこの物語のままでも十分に、シマの沸き上がる情念、カガミの渦巻く葛藤は十分に伝わるはず。そんな2人が見せた清濁併せ呑みながらも何かをつかもうとあがいた姿の間で、生を謳歌するナツの姿にこそその身をなぞらえ、この難しい世界を生き抜く力を育もう。


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