キリンヤガ
KRINYAGA:A FABLE OF UTOPIA

 時にSFは寓話として語られる。存在し得ない事象の起こり得ない事柄を描きながらも、それが存在しまた起こった時に人がとる行動や、世の中の動きを想像させることで読む者の心に警鐘を鳴らす。

 寓話が寓話たる所以は1つに、いかようにも取れる物語に必ずや、現実世界に適用可能な警句が含まれていることがある。見つければ幸いを得ることができるが、見落とせば不幸せをもたらす。そして寓話が寓話たる所以はもう1つ、あからさまに現実をなぞらえて警句を発していないことがある。伝聞なら聞き手は、書物なら読み手はだから寓話を読み解きその意図を、正しく理解し現実に適用する方法を学ばなくてはならない。

 SFの全てがもちろん寓話とは限らない。解放された想像力の遊び場と認め、その中に身を委ねて漂う快楽を供する作品も多く確かに存在する。だが、疾走する想像力に身を任せて流される至福に酔ってばかりいると、寓話として書かれた作品の込められた警句を見落としてしまう可能性もある。受け取り方によっても寓話の意図は正しく伝わらない。寓話として警鐘を内包したSF作品をだから読者は、よくよく深く読み込んでその意図を理解しようと務めなくてはならない。

 マイク・レズニックが、アフリカはケニアという国がある地域に暮らしていたキクユ族が、昔ながらの暮らしを復活させるために移住した惑星を舞台に、そこでの人々の暮らしを描いた連作SF短編集「キリンヤガ」(早川書房、820円)は、惑星移住という存在し得ない事象の起こり得ない事柄を描きながらも、読む者に現実を改めて見据えさせる様々な警句に富んだ、寓話としての強い力を持っている。

 22世紀。アフリカも都市が開けて人々はサバンナでもジャングルでもないビル街に暮らして欧米と何ら遜色のない文明社会を築き上げている。だが祖先が営んで来た原始からの暮らしを記憶に止めている者たちの中に、白人が線引をして決めた「ケニア人」ではなく「キクユ族」としての暮らしへの回帰を求めて戦う者たちが生まれて来た。その1人、コリバは欧米の大学で学んだエリートでありながら、自らをキクユ族独特のムンドゥムグ=祈祷師と認めて文明を拒否し、仲間たちとテラフォーミングされた小惑星「キリンヤガ」へと移り住み、文明化される前のキクユ族としての暮らしを始めた。

 だが、移住しても周囲は22世紀の世界であり宇宙へと進出する科学力を持った人類が存在し、地球には高度に文明社会を営むキクユ族、今のケニア人たちが存在する。ムンドゥムングの祈祷の威力を陰で支えるコンピュータネットワークがあり、気象衛星が小惑星の周囲を巡り、祈祷で薬草でも救えない子供をたちどころに尚してしまう医療がある。「キリンヤガ」では夫には逆らわず老いては子に従い学問など必要とされていない女も、その他の場所では自立し台頭で学問も必要とされている。

 短編の1つ「空にふれた少女」に登場するカマリは、ケニヤだったら聡明な少女として大成したかもしれなかった。しかし「キリンヤガ」では女性が文字を読み書くことなど許されず、カマリは思いかなわず死を選ぶ。「篭の鳥が死ぬわけを知っています 鳥たちと同じように、あたしも空にふれたから」。カマリが詩として残した言葉の寓意は果たして旧弊なるものへの抵抗だったのか、それでも旧弊を貫き通すコリバの強さへの賛辞だったのか。

 短編はさらに寓意を積み重ねる。跡継ぎにと頼んだ少年、ンデミは知識を得るに連れてコリバの話すキクユ族に伝わる寓話を古めかしく直裁的ではなく嘘が多いと非難するようになり、やがてコリバの元を去っていく。墜落した宇宙船のパイロットを救いに表れた文明世界の女医が、彼女の倫理で施した文明世界の医療がムンドゥムングの権威を失墜させ、彼が排除しようと務めたあらゆる文明が「キリンヤガ」へと入り込んで来る。

 冒頭にキクユ族の寓話が進む太陽を愚かにも人が止めようとして仕舞うという教訓が語られ、事実そのとおりになっていった「キリンヤガ」を描いた短編「古き神々の死すとき」を、冒頭の寓意そのままに原始への回帰を嗤う寓意と取るべきなのか、それすらも含めて原始から未来へ、未来から原始へと思いのままに揺れ動く、人間の賢しらな振る舞いを嗤った寓意と見るべきなのか。

 破れたコリバを文明の敵と糾弾するも可能。誘惑の弱すぎる人間の愚かしさを嘆くのも可能。だが寓話が寓話たる所以になぞらえ、いかようにもとれるその寓意から真意を読みとれなかった時に人は、短編「ささやかな知識」の冒頭に掲げられたキクユ族の寓話そのままに、蟻と同じく甘い蜜ばかりを集めた象でありライオンと同じ、飢えて痩せ衰えた姿をさらすことになる。寓話で語られた事実の下にひそむ真実を見つけられなかった罰として、考える力を奪われ支配に甘んじることになる。

 感動に酔い感傷に浸るのも大いに結構。想像力の泉に浸って涙にくれてもらって構わない。「キリンヤガ」がそれだけの力を持った物語であることに誰も否定はできない。だが幾重にも折り重ねられた寓話の事実そその下の真意を探った「寓話」としての「キリンヤガ」に、作者がこめた真意を読み解くまでは涙を流すことはできない。文明は敵か、見方か。経験だけがその答えを教えてくれるのだろう。


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