記憶の技法

 あったことは絶対になかったことにはできない。忘れてしまっていてもあった事実は変わらない。それでも忘れているのだったら、忘れたままにして、なかったことにして果たして悪いのだろうか。おぞましい記憶を深く心の奥底に封印したままでいていけないんだろうか。

 いいと思うし、よくないとも思う。いいというのはつまり、忘れたまま、なかったことにしておけば悲しい思いに泣かなくてすむから。苦しい思いに悩まなくてすむから。それで自分は安心できる。

 けれどもすべてを忘れて、安心している自分の回りには、泣いている人たちがいる。苦しんでいる人たちもいる。封印された記憶の中で、気付かれず思われないまま闇にたたずみ続ける人たちがいる。

 そんな人たちにまで気持ちをむける必要があるのか。ひとり幸せならそれで構わないのではないか。塗り込められた記憶の向こう側を、わき上がる好奇心と恐怖を越えてをのぞこうとする少女を描いた吉野朔実の「記憶の技法」(小学館、505円)が、そんな問いかけにある種の解を指し示す。

 女子高生の華蓮には”持病”があって、記憶がときどきポコンと抜け落ちてしまう。酢豚を昔おいしいといった記憶がなく、好物だからと酢豚を何度も作る母親に文句がいえなかったりする。子供の頃に事故にあい、おでこを縫った話もやっぱり覚えていない。それでも円満に家庭生活、学校生活を営んでいた。

 そんなある日。華連の学校が韓国に修学旅行に行くことになり、パスポートを取るために戸籍を取り寄せた華蓮の目に、驚くべき事実が飛び込んできた。ひとりっこなのに戸籍の右側に名前が載っていなかった。由という名の姉がいて、おまけに華蓮より2カ月も後に生まれていて、4歳の時に死んでいた。

 いったいどういうことなのか。浮かび上がる可能性、今の両親はどうやら本当の両親ではないのではという事実を前に華蓮は悩む。記憶をたどり、通っている学校で生徒たちから不良扱いされてる少年の協力も受けながら、戸籍の謎を解き過去を探しにいこうと旅立つ。

 自分の戸籍が少し妙だからといって、人はやっぱり”本当の親”というものを探してみたくなるものなのか。今がとてつもなく幸福で、今の両親もとてつもなく親切だったらそれでいいのではないか。忘れたままで構わないのではと思う理由はそういうこと。たどり着いた事実の恐ろしさを知れば、なおのこと強くそう感じる。

 なるほど今の両親には幸福を与えられる。けれども封じ込められた記憶にたたずんだままの人たちは、それでは決して浮かばれない。恐ろしい記憶の周囲にあった楽しい記憶も失ったままだ。封じ込められた過去に交錯した人たちの、今へと至る罪の意識も癒されない。

 その責任を華蓮が負う義務はない。ないだけに思い出すべきか、忘れたままにしておくべきかは個々人の判断に関わってくる。華蓮は記憶をたどる道を選んだ。そして答えを得た。華蓮は幸せになれたのか。不幸になってしまったのか。これもまた読む個々人の判断に寄る。

 それでもひとつ、雪の小樽の風景の真実に気付いた華蓮の抱く感情に、決して後ろ向きではないものを感じ、後ろをむいたままではない作者のメッセージを感じる。犠牲はあった。けれども得るものもあった。たくさんあった。その事実が、恐怖に立ち向かう勇気を与えてくれる。

 戸籍への疑問から過去へとせまっていくストーリーは、探偵役の少年も登場して、謎解きの要素を楽しむミステリーとして読める。フラッシュバックする恐るべき過去が、現実に挟まれるような描写といい、蘇った過去の記憶の中を、今の成長した姿の華蓮が歩き回る描写といい、漫画ならではの表現もあって物語に厚みを加えている。そして記憶の価値へのひとつの解。読んで得られるものの多い一級品のコミックだ。


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