金色の魚
 女性の作家は優れて「幻視力」に秀でているらしい。この何年かに読んだ多くの女性作家が、それぞれのスタイルでさまざまな形をした幻の世界を視せてくれた。

 体が結晶化していく島での生活を凛とした筆致で描いた小川洋子の「密やかな結晶」、生と死が同在する呪術的な世界を現出させた笙野頼子の「二百回忌」、体が縮んでしまう女性が自分を探して旅に出る松尾由美の「ピピネラ」、そして蛇を踏んだ女性の日常を侵していく非日常を描いた川上弘美の「蛇を踏む」。ここに挙げた以外にも、同じようなテイストを持った「幻視小説」が、女性作家によって数多く書かれるようになった。

 ポエムとかメルヘンとかファンタジーとかに浸れるのは女性の特権じゃないか。そういった観念もかつてはあった。とくに男性が女性の作家や女性向けに書かれた小説を評するときに、必ずといっていいほど持ち出された固定観念だった。しかし今日書かれている前掲のような「幻視小説」の1群は、ことさらに女性向けに書かれたものではないし、女性だけが読んでいるわけでも決してない。

 背の縮んでしまった妻を持った果てに失踪してしまった夫ではなく、背が縮んでしまう現象に折り合いを付け、自分を取り戻して帰途に付く妻の方に感情移入して、周囲の無理解のなかで強く生きる術を得る男性だっている。蛇を踏んだ女性が蛇の世界への誘惑に揺れ動く心境を読んで、自己のおかれた曖昧なポジションに惑い悩む男性もいる。こと読み手側に限っていえば、女性も男性も「幻視力」に満ちた小説を求め愛し、望み憧れている。

 書き手側に女性が多いこと。これはひとえに、女性の書き手が、現代に生きる人々の虚ろう心を掬い取り、癒しを施す術に長けているからであって、むしろ男性の書き手の側の、こうした分野を手掛ける意欲の低さを責めるべきだろう。かつての梶尾真治や、近年活躍著しい薄井ゆうじのような男性の書き手もいるにはいるが、まだまだ少数派に過ぎない。

 第7回朝日新人文学賞を「金色の魚」(朝日新聞社、1500円)で授賞した竹森千珂は、女性側の「幻視小説」の書き手として新たに加わった、強力なカードの1枚だと思う。女性作家であるという言及がなく、雑誌などで女性であることを確認した訳ではないが、あとがきのカギカッコで括られた話し言葉を読む限り、たぶん女性の作家だろう。

 「金色の魚」はこんな小説だ。「しっぽ」を持って生まれた少女は母と離婚した父親に溺愛されて成長した。高校生の時に近所の画廊で見た「金色の魚」という絵の秘密を求めて東北に旅に出て、旅先で少女のような老婆と、くたびれた中年男と出会って少し大人になる。大学に入って京都に行き、大学生の男友達や老人の茶飲み友達などに囲まれながらも、「しっぽ」のある自分に天使を見出そうとしかしない男たちの態度に苛立ち、少女は自ら「しっぽ」を断ち切ってしまう。やがて男たちは離れ、あるいは死別し、少女は女になって1人東京に戻っていく。

 導入部から綴られる「しっぽ」というモティーフに、この小説の主題を見出そうとしても、たぶん徒労に終わるだろう。たしかに「しっぽ」は、少女がありきたりの学園生活を過ごさなかった理由付けにはなるし、周囲の憐憫にも似た愛情を断ち切り、完全な大人へと脱皮するための儀式を、「しっぽ切り」が暗示していると見ることも可能だ。

 だが「しっぽ」だけに目を注ぎ、「しっぽ」を少女と大人を隔てているものの暗喩として追っていくことによって、見逃してしまうものが多いような気がする。流麗でも饒舌でもなく、修辞に長けているともいえない、断片を重ね合わせたような文体だが、そこには不思議なリズムがあり、変わり続ける色と形があり、そしてなによりも幻の世界を視せる力がある。「しっぽ」は世界を異化させる小道具の1つとしてそっと頭の隅に置き、言葉によって紡ぎ出される幻の世界を、時にわが身と浸りきり、時に身を引いて客観視しながら、とつとつと読み進めていく方がいいような気がする。

 作者は1974年生まれの京大生。これからも書き続けるのかは解らないが、「私はここから、どこかをめざしていけるのだ」というあとがきの言葉を信じて、別の世界が紡ぎ出されるその日を待ち続けたい。


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