黄金色の祈り
KINIRONO INORI

 もう後悔しっ放しの人生でも、「部活動」にまったくもって熱心に取り組まなかった事を悔いる気持ちのウエートは大きい。もちろんまったくやらなかった訳じゃない。小学校の時はサッカー部、中学校の時は軟式テニス部、高校では地学部に入って一応は部長まで務めた。

 それで何を後悔しているのか? 簡単に言えばこの3つのどれ1つとして全うしたクラブが無いということ。サッカー部は熱心だった割にはレギュラーどころかユニフォーム組のメンバーにすら入れてもらえず、背骨を痛めた事を理由に6年生の途中で辞めてしまった。軟式テニス部は部員が多すぎて試合どころか球を打つ練習すら出来ない状況に嫌気がさして1年の途中で行かなくなった。

 地学部はもっと凄い。1年の夏には出なくなり、2年の最初に顔だけ出したら部長になったと告げられて、それで一応は新入部員を迎えたもののやっぱり1度も行かずに3年になった時に見もしなかった下級生に部長を引き継ぎそれっきり。卒業してから教育実習で行った時にちゃんと部が続いていた事を知って、罪悪感とともに安堵感を覚えた記憶がある。まあよく続いたもんだ。

 手前勝手に入っては辞めておいて何が後悔だと嘲る声も多かろう。ごもっとも。だが在学中はもちろん後年そして今に至るまで、現実書物漫画映画に登場する「部活動」の甘酸っぱかったり苦かったりする”青春の群像”を見たり聞いたり読んだりすると、そんな思い出の一切を持たない自分の人生に、どこかポカンと抜けてしまっている穴があるような気がして仕方がないのだ。

 西澤保彦の「黄金色の祈り」は中学と、そして高校時代のブラスバンド部が小説の主たる舞台になっている。主人公は中学時代に女生徒が多いブラスバンド部に新入生では3人の男子部員として入部して、最初はテューバを担当して後にトランペットを受け持つようになった。腕前は自分では決して悪くはないと思っていて、他の楽器も音階程度だったら演奏できるくらいの能力はあり、他の部員には優しく、外には出さないまでも内には適度の自信を持っている。

 主人公とは対称的に、同じ学年でバリトン・サックスを担当している松元幸一は楽器に関しては紛う事なき天才との称号を得ている。ジャズに親しみ演奏も上手いがいささかエキセントリックな所があって部内ではやや浮いた存在になっている。ある日持ち上がったアルト・サックスが部室から盗まれるという事件では、主人公は上級生の女性部員、教子から松元が犯人として疑われているが、と聞かされる。ただでさえ浮いた存在の松元が、盗みまで働いたとあっては一層居場所がなくなると言って、主人公はそうした疑いを否定する。

 だが、別々の高校に分かれた主人公と松元が、再び見えたその日に同じ様なサックスの盗難事件が起こる。やがて大学受験に失敗して、米国の大学に入学した主人公の元を訪れた、彼に松元が疑われている事を聞かせた教子から、大学へと進学する一方で米国でも有名なジャズのビッグバンドのメンバーとなって活躍していた松元が、かつて主人公と通った中学校の屋根裏で、高校の時に主人公の高校から盗まれたというアルト・サックスを傍らに置いたまま、白骨死体となって発見されたという話を聞く。

 死んだとは言え一時はプロとして活躍した松元、楽器や辞めたものの画家として大成した中学時代の下級生、主人公がトランペットから高校2年時に転向して始めたものの物に出来なかったオーボエを、経験のないまま担当させられそのまま芸大を経てソリストになった高校時代の下級生、要領の良い奴とどこか蔑んでいたにも関わらず満場一致で部長に選ばれ後に一時やはりプロとして活動し、今はサラリーマンなんがら明るい家庭を気付いている中学の時の同級生。

 大学に入って一時は目覚めた詩作でも、初体験の相手ながらすぐさま気まずくなった同窓の女性にコンテストの第1席をとられ、自分は入選どころか悪例としてエリオットのコピーだと扱き下ろされる。何をやって大成せず、その度に投げだし逃げては別の方面に才能を発見する、気分だけを味わう主人公の人生を読んでいると、すべてを途中で投げだしていった自分が重なり気が滅入る。

 加えるにそれでも主人公は、部活時代の人間関係を40になっても続けている。自分はと言えば高校時代どころか大学時代の同級生とすら、もう何年も会っていない。主人公を羨ましいと思ってどうして悪いだろう? あまつさえ主人公は小説家としてデビュー出来たのだ。アメリカにいる人間が、どうして日本にいる人間を中学校の屋根裏で「殺害」できたのかを問う小説で。

 デビュー作を超える作品が書けないと主人公は言う。後から来る人たちにどんどんと追い越されて行くと嘆く。なるほど悩みは尽きないようだが、それを羨む人々が他に大勢いるんだと言うことをどうして気が付かないのだろう。と考え及んでふと気付く。もしかすると自分の人生だって、他人から見ればそれなりに羨ましい物なのかもしれない、ということに。

 部活動の思い出がないからどうだと言うんだ。サッカーやテニスでプロになったと言うのか。地学部を経て地球物理学者になってチヤホヤされているとでも言うのか。そうでなくても引っ込み思案の癖に自意識過剰な難物が、部活動をやっていたからと言って女生徒にチャホヤされて輝ける”青春の思い出”を作り上げていたと言うのか。たぶんプロになんかなっていなかっただろう。思い出だって作れやしなかっただろう。それでも剥がれ落ちない気持ちがある。だがしかし、あるいは、もしかしたらという気持ちが……

 自意識過剰で自信家で劣等感が強く、「ここではない場所」に「こんなはずじゃない人生」を探し求め続けたものの結局未だ果たせずにいる主人公が、中学時代の思い出へと帰結し過去に後悔の原初を見出して悩む姿を、だからと言って反面教師と認めて我が身を奮い立たせる、そんな気持ちはやっぱりどうしても湧いてこない。こんな自分を道化と笑い反面教師と蔑む他人が圧倒的とも思わない。人はどこまでも「ここではない場所」に「こんなはずじゃない人生」を探し続けたいのだから。

 それでもこれだけは言っておく。「なかった過去」からは「ありえたかもしれない未来」など生まれはしない。そして「いまある現在」からは「ありえるかもしれない未来」は生まれる。物語の結末で、しでかした過去を深く悔い、おそらくは今も悩み続け、それでも重い十字架を背負ってようやく前を向いた主人公に、倣って自分も前を向く。


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