莫迦になることは難しい。生まれながらの莫迦だったら、自分を莫迦だとは気づかないまま勝手に莫迦でいられる。けれども莫迦でない者が莫迦になるということは、莫迦とは何かを知るだけの英知がいる。そして莫迦になって莫迦だと莫迦にされることに我慢できるだけの強い心がいる。莫迦でない者が莫迦になることはことほどさように難しい。

 莫迦でい続けることはさらに難しい。莫迦になれるほどの英知の持ち主ならば、その英知を世の中に役立てたいという気持ちに常にかられる。なおかつ莫迦のふりをできる英知は、英知のあるふりをしている莫迦よりも、よほど優れたアイディアを生み出し、施策を打ち出して世の中のためになれる。

 しかし、そうなってしまった莫迦はもはや莫迦とは呼べない。莫迦は英知があるところを見せてはいけない。莫迦は莫迦であるから莫迦なのだ。そもそも莫迦が見せる英知などどこの誰が信じよう。莫迦の行う莫迦げたことだと笑い飛ばされ、永劫に莫迦だと蔑まれる。

 莫迦になれるほどの英知の持ち主に、これが果たして耐えられるのか。英知を出さず世に問わないまま、歴史の暗闇へと埋もれていく境遇に耐えられるのか。莫迦になることは難しく、莫迦でい続けることはさらに難しい。不可能、と言い換えてもいいだろう。

 だが、ここに偉大なる莫迦がいた。莫迦のふりをしている英知だった。莫迦のふりをし続けた。死してなお莫迦と蔑まれ嘲笑された。にも関わらず結果として国を救い、民を救う大偉業を成し遂げた。小山歩の小説「戒」(新潮社、1600円)は、そんな偉大で大莫迦者の男の物語だ。

 帯沙半島という土地に、古く再という国があった。戒はそこに生まれ、道化として王に仕えた舞舞い(まいまい)で、王を誑かしそそのかして軍師となって専横を振るった挙げ句に、他の軍師たちの怨みを買い暗殺されてしまった。戒についてはその伝えられている。英明な君主を惑わせたといって、半島では今も戒は嫌われ者として蔑まれている。

 2002年になって、帯沙半島でその戒の墓が発見され、猿面といわれた戒の正体が分かると人々は色めき立った。しかし驚くべきことに、戒の遺体の下に敷かれていた布には、王の后の筆で「再王」という文字が書かれていた。

 王でもない、家臣ですらないただの道化を、王の后がどうして「王」などと言ったのか。夫である君主を堕落させた憎むべき相手ともいえる戒を、王妃が「王」と呼んだのは何かの皮肉なのか。その理由が明らかになるに連れ、王のもとで莫迦のふりをし続けた奇跡の男の、葛藤と慟哭、逡巡と開き直りに激しく揺れた生涯が浮かび上がってくる。

 中国の古代を思わせる再の国に生まれ、国王の乳兄弟として育ったのが戒という男だった。将軍家の出で、正妻の子ではなかったものの英知と才気を買われ、家督を譲られることが決まっていた。しかし戒は家を継がず、また内心では望んでいた諸国を歩いて見聞を広める道にも進まず、王の道化となり、家臣や国民たちに莫迦にされながらも、王と国を支えようとする道を選んでしまった。

 もちろん戒は、道化に身をやつすだけの英知を、それも人並み外れたものを持っていた。宴席広間に作った掘建小屋で寝起きし、王宮に身分違いも甚だしい庶民や流浪の民を引き込んでその暮らしぶりを王に見せようとした。悲劇が演じられている舞台に飛び入りして、喜劇に変えてもしまう振る舞いも、国王の教育という大義が戒の中にはあった。

 もしも英明な国王だったら、そんな戒の道化ぶりを韜晦と読み、自らを立てようとして仮面を被ったものと見抜き、影に彼を支えようとしただろう。だが暗愚ではないにしても純朴で平凡な国王は、戒が自分の側にいてくれることだけを望み、その有り余るほどの才能を才能に見合った立場から発揮することを認めなかった。思いもよらなかったのかもしれない。

 だから戒が、敵対する隣国に単身乗り込み、邸宅の荒れた庭を整え隣国の王を挑発して還っても、やんやの喝采を浴びせるだけで身は道化のまま留めおく。ならばと戒は、王に自分を軍師にすればこんな道化でもつとまるなら、各地から優れた人材が集まってくると進言して軍師の座に収まる。集まってきた軍師たちに情報や知恵を与えては、彼らに才能を認められる。

 けれども王や取り巻きの家臣たちには、戒はどこまでも戒、奇矯な振る舞いで楽しませ驚かせるただの道化でしかなかった。道化を偽りだったと捨てて将軍として王を支える成り、才能を認めてくれる君主のもとで本気で仕事に取り組む道もなかった訳ではなかった。しかし戒は国を捨てなかった。王に仕える道化であり続けた。死ぬまで莫迦でい続け、今なお莫迦と呼ばれ続ける。偉大な大莫迦者としか言いようがない。

 物語のクライマックス。強大な隣国による侵略という国家存亡の危機に戒が見せた振る舞いは、持てる英知を出すことでもなければ逃げ出すことでもない、徹底した道化の技だった。しかるにその技が、結果として国を救い続けることになった。感謝などされない。記録としてすら残らない。そんな立場にあり続けた戒の日陰者の生涯を、「再王」という王妃の献辞と重ねて素晴らしいと感じた時、人は生きる目的と意味を知る。

 もしかすると、生来の優柔不断さや新しいことに対する臆病さが、戒に諸国漫遊といった冒険を許さず、母親の影を乗り越える勇気を出させなかったのかもしれない。英明な者にありがちな山よりも高いプライドが、いまさら家督を継ぐような真似を戒にさせず、結果として国王にはべりその手のひらで踊り続けて録をはむ、莫迦のふりでいる莫迦であり続けさせたのかもしれない。

 指導者や官僚や経営者が、その立場やプライドに引っ張られ、無謀と分かっても突き進んでしまって取り返しのつかない事態へと至ってしまうことを、暗に示唆している可能性もある。が、幾度に渡って命をすり減らしながら舞い続け、結果として国を救ったエピソードに免じて、莫迦であり続けた偉大な英知にして究極の大莫迦者だと戒のことを認め、讃えよう。

 中国に擬した虚構の国家を舞台にしたドラマのなかで、人間の生きる困難さを浮かび上がらせる腕前はひたすらに圧巻。、「日本ファンタジーノベル大賞」で栄えある第一回目の大賞を獲得した酒見賢一の「後宮小説」に、設定でもメッセージでも近いものを感じる。「墨攻」を経て「陋巷に在り」を完結させ、稀代の歴史伝奇作家となった酒見に続く活躍を小山歩には期待したい。


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