KAGEROU

 蜉蝣。弱々しげな体躯で風に漂い、宙に舞いながら、短い時を生きる存在。その生涯は儚げで、けれども決して途切れることはなしに、後の代へと生をつないで、種を種として残す。

 陽炎。灼熱の地平に、ゆらゆらと立ち上って背景を歪め、非現実のビジョンを描く現象。その姿は幻惑的で、けれども決して幻ではなく、揺れ動く向こう側の背景は、確実に存在して、訪れる人を待ち受ける。

 敗れ去り、貶められて世を拗ね、己を瞬間の存在、蜉蝣の如き存在と、認めたくなる時がある。迷い果て、先に進めないまま、陽炎のような幻の中に、溺れてしまいたいと願う時がある。けれども。

 人は絶対にひとりではない。薄命で孤高の存在に見える蜉蝣でも、後代へと種をつなげているように、人も誰かとつながっていける。そして、世界は絶対に幻ではない。陽炎のように揺らめいていても、そこにあって、おおぜいの人をそこに息づかせ、育ませ、支えている。

 命を見よ。現実を感じよ。そうすれば、この世界に生まれ落ち、この世界で生きさせられている意味を、誰もが知れる。そして思う。踏みとどまろうと。つなごうと。

 「KAGEROU」(ポプラ社、1400円)というタイトルを与えた物語に、齋藤智裕が込めて、願おうとしたものも、蜉蝣が見かけによらず強靱であり、陽炎が現実そのものだという命題の向こうに、命を命として感じ、そしてつないでいくことの大切さを、感じたからなのかもしれない。

 バブル期に職に就き、流されるままに仕事をして来たヤスオという男が、気づくと不況の中で己の居場所を得られず、リストラされて現実をはかなみ、死のうとして廃墟となったデパートに忍び込み、屋上にある遊園地からフェンスを越えて、命を絶とうと目論む。

 そこに現れたのが、キョウヤという名の謎めいた男。死のうとしていたヤスオの脚を文字通りに引っ張り、引きずりおろして、ヤスオにひとつの提案をする。落ちればアスファルトの路面に弾けて、そのまま失われる命を、金に換えてみないかと。

 死んでしまった人間に、生前の暮らしを思い起こさせ、悔い改めさせようとする物語なら、これまでも多々あった。原恵一が劇場アニメーション映画にした森絵都の「カラフル」もそのひとつ。取り残されようとした家族や周囲の慟哭、戸惑いが描かれて、己の安易な思いで選ぶ死の罪深さが示された。

 「KAGEROU」はそうした、ファンタジックな展開へとは向かわない。慈善としての誘いは断りながら、打算としての契約には応じて、キョウヤに身をゆだねるヤスオの姿から、命には無限の価値などなく、はじき出された数字がすべてなのだという現実を、まずは突きつけられる。

 けれども、そんな打算から始まった終末の日々、個としての終わりを、ひたすらに待つ日々に、一筋の光が射してヤスオの心をふるわせる。蜉蝣のように儚げで、陽炎のように浮かんでは消えるだけだった自分の人生、自身の命でも、誰かの人生を後へとつなげ、現実に踏みとどまらせる力があるのだと気づく。

 実にストレートで、実にクリアなメッセージ。テクニカルな構成もなければ、レトリカルな言葉の採用もない。あり得ないくらいに高潔な人間も登場させない。むしろ、卑俗なまでに砕けた表現を差し挟み、低俗さすら感じされる人間たちを使うことによって、人の揺れ動く感情を描き、誰の身にも重なる不安や、悲しみや、喜びを描き出す。

 ぽっかりと開いてしまった胸の奥に、手を使って血を送り、己を奮い立たせて歩む姿は、傍目には滑稽きわまりない。けれども、だからこそ人としての必死さが伝わる。ただ世を儚み、漂っていた人間の内にも、そうまでしてやりたいことが生まれ得るのだと教えられる。

 つなぐこと。そして現実につなぎ止めること。誰にでもできて、それなのにやろうとしなかったことを、「KAGEROU」という物語は思い起こさせてくれる。そして、命についていまいちど、深く強く考えさせてくれる。

 KAGEROU。飄々として辿々しく綴られ、毀誉褒貶を浴びながら瞬間の耳目を集めて終わると目されがちな物語。その存在は蜉蝣のように儚げで、陽炎のように幻惑的に取られながら、けれども強い印象を読む人に残し、語り継ぎたいと思わせ、そして自らをつなぎたいと願わせるだろう。


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