女流棋士は三度殺される

 記憶と計算の分野で人間はもはや、というよりすでにコンピュータにはかなわなくなっている。それは囲碁や将棋といった思考ゲームでも同様で、グーグルの関連会社が開発したアルファGOに世界のトップ棋士が次々に敗北を喫しているのは知られた話。将棋でもトーナメントを勝ち抜いた棋士を相手にコンピュータが指す棋戦で人間側の敗北が続いている。

 残り時間も少ないぎりぎりの局面で瞬時に判断する直感力で人間はまだ、検索から参照、計算といった手順を重ねるコンピュータを上回っている部分があるかもしれない。けれどもそれも遠からず逆転されるか、すでに逆転されつつある。人間はコンピュータにかなわない。それは、不世出の将棋棋士で史上初の七冠制覇を成し遂げた羽生善治も認めている。

 そして、人間の棋士がこれからも必要とされ続けるということも。同じ勝負という局面において人間とコンピュータが競い合うことだけに価値があるわけではない。人間という存在において最強は誰なのかを決めるという意味で、人間同士の棋戦は求められる。他ならぬ人間によって。

 だったら、その人間の定義とは何なのか。完全なる生身か。少しのサポートはありなのか。今はまだ人間がダイレクトにネットへとアクセスして、情報を検索して最前手を探ることはできないけれど、いずれサイバネティクスの技術が進み、ネットワークの高速化も進んで人間が、インプラントされたデバイスを通してネットに常時接続された状態におかれるようになる。そうなった時にどこまでが人間で、どこからが機械なのか、その差はどこにあるのかを考える必要が出てくる。

 人間とは何かということも。はまだ語録による「女流棋士は三度殺される」(宝島社文庫、600円)は、将棋に挑む若者たちの青春を描いている小説でありながらも、究極的には人間という存在について思索をめぐらせた、テクノロジー時代のポストヒューマンを探求した小説だ。

 舞台となっているのは高校にある将棋部で、そこでひとり孤高の強さを持っていながらプロにはならず、医者になるといった男子高校生、松森香丞が物語の主人公。香丞の周りには奨励会3段でプロ棋士1歩手前という坂上桂香という少女がいて、アマチュアでありながらオープン棋戦で女王となり、抜擢されて女流棋士になった玉輪歩己という少女もいる。小学生でプロ棋士になって、今は最高峰の名人位にある、高校では香丞の1年先輩にあたる相馬龍翔という少年も。

 そんな状況で発生したのが玉輪歩己への殴打事件。重たい将棋盤で殴られたらしく、意識不明から植物人間化も危ぶまれた。そんな暴力をいったい誰が振るったのか? といったことを推理していくのがメーンのストーリーになっていて、誤解から犯人と思い込んだ相手を守りたいと思ってとった行動も重なって、複雑化した事態を香丞が推理をめぐらして解決していく。

 もっとも、そうした学園ミステリとしてのストーリーの上に意外なビジョンが浮かび上がってくる。それが、ポストヒューマン時代における人間の思考とは何か、といった問題だ。

 ここで小説の舞台が、刊行された2017年そのものではなく以前でもないことが意味を持ってくる。作中に米長邦雄であったり羽生善治であったり、森内俊之であったり加藤一二三であったりと、多くが知る棋士たちの名前が登場する。だからつい、リアルタイムで書かれた物語だと思い混んでしまうけれど、それが違っていることに程なく気づく。そのことがストーリーの展開に、あるいは設定に深く関わってくる。

 言えるのは、コンピュータが将棋で人間を上回る強さを発揮するようになった時代、そんなコンピュータの力を容易に得られるようになった時代において、人間はなお、孤高にして生身の体であり続けるべきなのか、といったこと。一切の不純物を廃して人間であり続けようとする意志を尊いとみることは自由。けれども、生来の人間といったものが少数派となっていくだろう状況で、人間であることにしがみついていて良いのか。そんな問いかけが感じられる。

 スポーツの世界において将来、生まれながらの肉体を鍛え上げただけの選手たちが競い合い続けることが、サイバネティクスの発達によって、あるいはナノマシンによるドーピングに近い肉体改造にの普及によって無意味にならないとは限らない。ワクチン接種が幼児期の死亡率を下げたように、出生時のナノマシンによる肉体の補正が、人間としての将来を決めるようになった時代に、スポーツ選手を目指すからといってテクノロジーのサポートを拒絶できるはずもない。

 思考力もしかり。生まれてすぐにネットと繋がるようになり、そこから知識を得ながら成長していくことが普通となった時代に、生まれながらの脳だけで考え、記憶し、計算する人間など存在しなくなる。そう考えた時に、あらゆる思考スポーツに革新が訪れる可能性を排除できなくなる。もちろん将棋も。自分という存在は本当に人間として“潔癖”なのかも分からない時代に、それでもこだわるべきなのか。考えたい、この作品から。

 作者のはまだ語録は「着ぐるみ最強魔術師の隠遁生活」で第5回の「このライトノベルがすごい! 大賞」優秀賞を獲得してデビュー。以後、ネット上で将棋を題材にした作品を発表してそして今作に到った。囲碁や将棋といったボードゲームとテクノロジーとの関係では、宮内悠介による「盤上の夜」があって広く読まれている。それとは少し違って、将棋の側からアプローチしつつポストヒューマンの可能性を探ろうとしたという印象がある本作。宮内悠介作品と合わせ読んでみるのも良さそうだ。


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