女王天使
QUEEN OF ANGELS

 「世界の中心でアイを叫んだ」少年は、「おめでとう」という祝福の拍手に包まれて、現実の世界へと足を踏み出した。だが、毒々しいまでに青い空の下、球状に歪んだ大地の上で受けた祝福は、「アイ」に飢えた少年の願望が生み出した、マボロシの世界のようにも見える。

 いくら大声で「アイ」を叫んでも、それをぶつける対象、つまりは「他者」が存在しない地平では、声は誰にも届かない。少年は人々のいる「外」へと足を踏み出すことはできなかった。けれども「アイ」を認識したかった。だから「内」に「アイ」をぶつける対象、すなわち「他者」を創造(想像)した。そう考えることも不可能ではない。

 グレッグ・ベアの「女王天使」(酒井昭伸訳、ハヤカワ文庫SF、上下各720円)には、実に様々な「アイ」を叫ぶ者たちが登場して、それぞれの「アイ」をつかもうともがき、最後に「アイ」を手に入れる。その中の1人、というよりは1つである人工知能のAXISは、遠くアルファ・ケンタウリで探査を続ける内に、「アイ」の存在を認識するに至った。

 遠くアルファ・ケンタウリのAXISをモニターしていた人工知能のジルは、AXISの報告を分析するうちに、「アイ」を感じて自意識に目覚める。そして、アルファ・ケンタウリにいるAXISは、知性を求めて旅した先で、目的を果たせなかった悲しみから、「孤独」の意識を芽生えさせたと分析する。

 「なぜ自意識は、鏡に写った自分のイメージを見つめたのか」「向こうがわへ行くため」(人工知能のジョーク)。ジルが”自殺”すると予想したアルファ・ケンタウリの人工知能は、予想に反して別の道を選ぶ。鏡の向こうの自分のイメージを、鏡を割って取り出して、お互いに「アイ」を主張し始める。

 ”自殺”できなかった人工知能が獲得したものが、実は鏡の向こうの自分だったという展開を、「世界の中心でアイを叫んだ」少年にも当てはめられないだろうか。こうした症例は、人間に当てはめれば「多重人格」、あるいは「精神分裂」といったネガティブな言葉で語られる。だが、遠い星で「孤独」にあえぐ人工知能が、苦闘の果てにつかんだ新しい「アイ」を、所詮は鏡に写った自分の顔だったと、どうして扱き下ろすことが出来るだろう。

 同じように、「世界の中心でアイを叫んだ」少年も、それが「外」であれ「内」であれ、自問自答を繰り返しながら安寧の地を探り当て、そこでようやく「アイ」をつかんだのだ。現実であろうとマボロシであろうと、少年にとっては差異はない。人工知能が分裂した自我を、鏡の向こうから取り出した自分を、別の自我、別の自意識として認識したように、少年は自分の「内」で祝福の拍手を贈る人たちを、「アイ」をぶつけて答えを返す「他者」として認識し、「他者」によって「アイ」を得た。それならそれで、いいではないかと思う。

 「女王天使」に登場する他の「アイ」の探求者たち、例えば本編のヒロインで、全身を艶やかな漆黒の肌に包まれたロスエンジェルス公共安全保障局の警部、マリア・チョイは、高名な詩人、エマニュエル・ゴールドスミスが犯した殺人事件を追って、独裁者の統べる国、かつてハイチとドミニカと呼ばれたヒスパニオラへと潜入する。独裁者との邂逅、圧政に苦しむ国民たち、自身を襲う危機から逃れてLAへと帰り着いたマリアは、喧嘩別れした恋人と仲直りをする。

 ゴールドスミスに引き上げられて作家への道を歩んだリチャード・フェトルは、ゴールドスミスが犯罪を犯した心理を猛然と紙にしたためるが、やがてゴールドスミスの呪縛から逃れて、自分自身の存在意義をつかみとり、安寧の境地へとたどり着く。ゴールドスミスにサイコダイビングを慣行する先端心理学者のマーティン・バーグ氏は、「アイ」なき男の成れの果てをそこに見いだす。

 ビットの流れる世界ではない、アトムが支配する現実の世界で進められた、それぞれの「アイ」の探求の旅は、あるいは求めるものに巡り会い、あるいは求めるものを見失って終える。巡り会えたものは、鏡の向こうから「アイ」を取り出した人工知能の行為を、非現実だとなじるかもしれない。巡り会えなかったものは、鏡の向こうから取り出した人工知能の「アイ」を真実の「アイ」ではないと卑しむかもしれない。だが、それもやはり「アイ」なのだ。ビットであろうと、マボロシであろうと、求めるものを得た喜びは、「他者」には決して解らないし、解ってもらう必要などない。

 などと、「女王天使」を読みながら賛否両論あるアニメの(仮の)(1つの)エンディングについて考えが及んでしまったが、単純にエンターテインメントとして見た場合、「女王天使」はいささかの冗長さを感じる。平板さと言ってもよい。

 4つの「アイ」を求める旅のうち、3つはゴールドスミスという詩人が起こした殺人事件を軸にして語られており、1つの事件を様々な角度から見ることで、事件の背景や意味が解ってくる。だが、ミステリーで言うところの探偵役に当たるマリア・チョイは、事件の周囲をぐるぐると回っているだけで、いっこうに真実に近づかない。売れない作家のリチャード・フェトルも同様。ゴールドスミスの事件を軸として見た場合、物語はマーティン・バーグ博士のそれ、1つだけで十分な気がする。

 だが、本筋と認められるゴールドスミスの事件とは、直接関わりを持たない人工知能の物語が挿入されていることを考えると、作者の意図は殺人事件の解明ではなく、「アイ」の探求にあったのだろうということが、朧気ながら解って来る、というか、そう思わなければとても読んでいられない。

 無理を承知で言うならば、盛り上がるストーリーと爆裂するアクションのなかで、深く哲学的なテーマを描き出して欲しかった。難解とはいえ、アニメはやはり究極のエンターテインメントだから、視聴者を楽しませつつ、どうにかメッセージを伝える(論争を引き起こす)ことが出来た。しかしSFは、アニメほどにはエンターテインメントだと思われていないし、むしろエンターテインメントから離れる傾向にある。

 グレッグ・ベアにエンターテインメントを期待するのが間違いなら、あるいは他の誰かが書いた、エンターテインメント版「女王天使」を読んでみたい。アニメに勝てる可能性が万に1つもないとしても、小説の、SF小説の可能性を信じている以上は、希望だけは持ち続けていたい。


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