ジョーカー
旧約探偵神話

 ヨコジュンこと横田順彌との出会いは、筒井康隆との出会いに優らずとも、決して劣ることがないほどの衝撃を自分に与えた。 SFを読み始め、たちまちのうちにSFに引き込まれ、やがてSFは純文学を越えるかもしれないと考えるようになった自分の妄想を、横田順彌の「ハチャハチャSF」が見事に打ち壊してくれた。難解こそが至上と考え、クソ面白くないSFを解ったフリして読んでいた自分の妄執を、横田順彌の「ハチャハチャSF」が軽く一掃してくれた。

 SF的なアイディア、SF的なガジェットを何のてらいもなく、過剰なまでにストーリーに登場させることによって、ヨコジュンはSFの本質ともいえる「センス・オブ・ワンダー」、つまりはSFの「バカさ加減」を思い出させてくれた。近年、大原まり子と岬兄悟によって編まれたアンソロジー「SFバカ本」は、そんなヨコジュンの「ハチャハチャSF」を、正しく受け継いだ本とも言える。神林長平や山田正紀らによって思弁的な内容を持ったSFが書かれる一方で、「SFバカ本」のようなアンソロジーが編まれ人気を集める状況からは、狭いながらもSFというジャンルが、バランスを取ろうと懸命になっている姿が見てとれる。

 本人が望むと望まざると似関わらず、自分が清涼院流水に期待しているのは、ミステリーというジャンルに対する既成概念を一掃する「ハチャハチャミステリー作家」としての役割だ。次々と発生する密室殺人、続々と登場する探偵たち。結末はどんでん返しを繰り返し、挙げ句の果てに見えて来たのが、悠久の歴史と広大無辺な宇宙の存在だったというデビュー作「コズミック 世紀末探偵神話」は、まさしく「ハチャハチャミステリー」あるいは「バカミステリー」として、既存のミステリー界に驚きと衝撃を与え、圧倒的な反発と、ごくごく一部の共感をもたらした。

 過剰なまでの「アイディア」と「ガジェット」の反復は、第二作の「ジョーカー」(講談社ノベルズ、1500円)でも受け継がれ、自分がミステリーに惹かれた根本的な要因ともいえる推理する探偵のカッコ良さ、謎解きの結果得られるカタルシスを、何度も繰り返し見せてくれる。今回の舞台はその名も「幻影城」。湖に浮かぶ孤島に建てられたこの「陸の孤島」で、「芸術家(アーティスト)と呼ばれる殺人犯によって、ミステリー作家たちが次々と殺害されていく。

 「ノックスの十戒」と「ヴァン・ダインの二十則」、さらには濁暑院溜水による「推理小説の構成要素三十項」が冒頭で示される。ミステリー作家の殺人事件は、その「構成要素」を1つ1つ潰していくように発生する。恐慌に包まれた「幻影城」に、JDC(日本探偵倶楽部)から探偵たちが派遣されるが、日本でもトップクラスの探偵たちをあざ笑うかのように、「芸術家(アーティスト)」と名乗る犯人は次々と殺人を犯し、JDCの探偵たちの中からも遂に被害者が出てしまう。

 逆転につぐ逆転の推理合戦を経ても、いっこうに見えてこない事件の真相を、JDCの切り札的存在、第一斑副班長を務める美貌の探偵九十九十九が鮮やかに解き明かし、背後に潜む「神の理」を暗示して歩み去る。800ページにも及ぶ物語の果てに、読者は新たな謎を突きつけられ、ふたたび無辺の彼方へと放り出される。

 ミステリーの解体とかミステリーの破壊と言って、清涼院流水の活動を「反ミステリー的行為」とする意見も少なくない。しかし根っからのSFファンだったヨコジュンが「ハチャハチャSF」を書いた理由が、決して「SFの解体と破壊」などではなく、「SFへの愛の表明」だったように、清涼院流水がかくも「ハチャハチャな」ミステリーを書く理由は、同じく「ミステリへの愛の告白」なのだと思いたい。

 ただ欲を言えば、もっと激しく過剰さを追求してもらいたい。「コズミック」の衝撃は、例えるならば新入生歓迎のコンパの宴会芸で、美人の新入生を前にいきなり「象さん」あるいは「生鱈子」を披露したくらいに強く激しいものだったが、「ジョーカー」の衝撃は、同じ学生を前にした二度目のコンパで、「おいど」を披露した程度に留まっている気がしてならない。せめて「花火」を差し込んで、天井めがけてドンドンと打ち上げるくらいのことをしないと、究極の過剰さに慣れさせられた目には、最初ほどの衝撃は与えない。

 あるいは「ジョーカー」の抑制された過剰さは、究極にして最大の宴会芸目指した「前フリ」なのかもしれない。とすればいずれ書かれるだろう第三作は、「象さん」あるいは「生鱈子」をはるかに上回る衝撃をもたらしてくれるだろう。とりあえず期待した。

 しかし「象さん」あるいは「生鱈子」を越える宴会芸ってあるんだろうか?


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