ジェンダー城の虜


 伏見憲明さんの「クィア・パラダイス」(翔永社、1500円)には、「性」の境をいとも簡単に越えてしまう人たちが大勢登場する。は、トランスセクシャル、半陰陽、女装者、トランスジェンダー、耽美小説家・・・。実に堂々と、そして実にあっけらかんと「性」を語る彼ら・彼女らの言葉を読んでいると、「性」への偏見など、世の中からとうにお払い箱になってしまったかのように思えてくる。

 しかし、事がそう簡単に運ぶはずはなく、女性と男性は依然としてそれぞれの役割を暗黙のうちに分担させられている。ジェンダー(社会的に形作られる性)は、容易には覆りそうもない。

 「バルーン・タウンの殺人」(ハヤカワ文庫JA)で妊婦だけが暮らす街を舞台にしたミステリーを書いた松尾由美が、同じハヤカワ文庫JAから、ジェンダーを主題いした書き下ろし長編「ジェンダー城の虜」(520円)を上梓した。「伝統的家族制度に挑戦する家族」だけを入居させる「地園田団地」に、マッドサイエンティストとその娘が引っ越してきた。団地を作った「水原真琴」なる人物は、幼い日に二卵性双生児の兄妹が事故によってどちらかを失ったという。しかし住民は誰も、残った「水原真琴」が男性なのか女性なのか知らない。マッドサイエンティストはこの「水原真琴」に招かれて、「究極の女性解放装置」なるものを作っているという。

 しかしそのマッドサイエンティストが、突然何者かによって誘拐されてしまう。「女性解放」を快く思わない勢力による陰謀なのか。娘とお手伝いさん、娘の同級生たち、学校の女教師と彼女を慕う体育教師団地に住む「伝統的家族制度に挑戦している」と見なされたゲイの刑事やオカマの男たちが、マッドサイエンティスト救出のためのチームをつくり、推理と行動によって犯人たちを追いつめていく。

 団地の人々に対するいわれなき偏見が、冒頭の部分で提示される。それはそのまま、「性」の越境者たちに対する、ステレオタイプな反応を描写したものといえるだろう。マッドサイエンティストの救出に、団地の仲間たちが懸命に駆け回っても、団地の外の人々に浸透している根強い偏見は、まったくといっていいほど解決されていないし、解決させようとする描写もない。そんな描写を書いて、人々を啓蒙することが、本書の目的ではないようだ。

 ならば目的は。と聞かれていささか躊躇してしまうのは、「伝統的家族制度への挑戦者」の活躍がメインストーリーとなった、わずか270ページの小説の中に、帰国子女のメンタリティー、マッドサイエンティストの性癖、カミングアウトへの羨望、双子の意識等といったさまざまな主題が散りばめられていて、どれがもっとも重要なテーマなのかを、ランク付けすることが難しいからだ。

 博士の居場所を推理して、誘拐事件の真相を探り出すストーリーは、帯にあるように「ユーモアミステリー」かもしれない。しかしミステリーに付き物の衝撃的な事件もなければ劇的な探偵登場の場面もなく、おまけにこれがなくては締まらないという、スリルにみちた解決編もない。主題が散漫な上にミステリーとしての筋立ても平明とあっては、読者はどうやってそこにカタルシスを見出せばいいのだろうか。

 あるいは平明に書くことによって、ジェンダーをものともしない「伝統的家族制度への挑戦者」が、普遍的な存在となった暁の社会を描き出そうとしたのかもしれない。オカマと自己紹介されようが、スカートを履いた美人に野太い男声で挨拶されようが、誰も気にせず誰からも気にされない社会を。

 女性の社会的地位を逆転させた村田基の「フェミニズムの帝国」は、立場を逆転させることによって性差別の理不尽さを浮き彫りにしようとしたが、際立たせることはすなわち現在の性差別を認めることにほかならず、逆転によって描き出されるのも、新たな性差別でしかない。しかし「ジェンダー城の虜」は、女性の解放を歌いながらも、その実「性差」からの解放に重きを置いて、混沌とした社会のおだやかで居心地のよい暮らしぶりを、明示しているのではないだろうか。

 ただ小説として、たださわやかなだけではない、解放的な読後感を得られるようにするために、もう少し緻密な設計と、計算された山場づくりが欲しかった。なだらかな斜面を上がるような下るような中途半端な感じで進むジェットコースター。あっけない幕切れにも、予想された正体明かしにも、少しばかり欲求不満が残る。重きを置く場所の違いとはいえ、作家として、あるいは編集者として、もう少し読者サービスを考えても良かったと思う。


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