ジャムの真昼

 1葉の写真がある。または1枚の絵画がある。美しい、と思う心は誰でも普通に抱くだろう。名作なら、名画ならそこにあるだけで何かしらの感動を引き起こす。けれども時には、美しい、と思う以上の何かを与えてくれる写真や、絵が存在する。

 そこに写っている人はいったいどんな生をまっとうしたのだろうか。そこに描かれている場所ではどんなことが起こったのだろうか。写真や、絵として提示された強烈なビジョン。そこから果てしないイメージが紡ぎ出され、織りあげられて1つの物語をかたち作る。

 皆川博子の短編集「ジャムの真昼」(集英社、1900円)には、まさしくそういったプロセスを経て誕生した物語が7篇、収録されていて読む人に写真や、絵の奥底に渦巻いているだろう耽美的で、幻想的で退廃的で未来的な世界を見せてくれる。

 表題作の「ジャムの真昼」の場合、きっかけとなったのは表紙にも使われているGerard DI−MACCIOという名のイラストレーターが描いた1枚の絵だ。隆々とした肉体を、自らの両手によって胸の真ん中から引き裂くと、中から一糸まとわぬ美しい女性が現れる。意味しているのは男の中に眠るアニマか。それとも男を喰い破る女の凄まじさか。

 まず読むと、女の強さやしたたかさ、女の肉体が持つ力のようなものをイメージしたように思えて来る。甥を同じ部屋にはべらせ、自転車屋がいてペンキ屋がいて画家がいる、さまざまな男たちを翻弄し、虜にする豊満な女性の淫靡な日常が描かれる。けれども叔母と甥の爛れた日常の間に挟み込まれる、第2次世界大戦終結の折、ドイツへと帰る家族からヨーロッパ東部に遺棄された少年が、ジャムを舐め、妹を思い出しながら西へと向かう描写が、一段の奥深い物語を浮かび上がらせる。

 そして見える。たぶん2人は、イラストの男女は一心同体なのだと。琺瑯引きの浴槽と、ジャムと、「いとしいオーガスティン」の歌でつながった、悔恨と郷愁によって彩られた魂の双子なのだと。

 「夜のポーター」では、ロベール・ドアノーの焼け落ちた自動車で遊ぶ少女2人と少年3人の写真から、老いた子の女芸人の残された片割れが、今は夜勤のポーターとして働く、その昔一緒に遊んだ少年との再開によって、嫉妬や羨望が渦巻いていた過去に慚愧の念を抱く物語が紡がれる。

 ドアノーが撮影したのは、戦争の爪痕をも遊び場にしてしまうエネルギッシュな子供たちでしかない。けれども「夜のポーター」を読み終えて後、1度写真を見返すと、2人の少女の激しく揺れ動いた人生と、2人の少年が歩んだ堅実な人生、そして消えてしまった小さな少年の、哀しい未来が見えて来る。やがてそうした物語が先にあり、写真の向こう側にはあらかじめ、そんな物語が過去から現在、未来へと連なって流れているような錯覚に陥る。

 ファッション写真家としては著名なヘルムート・ニュートンが撮った、森の中で裸の男が裸の少女を肩車している写真から紡ぎ出された物語は、すぐれて退廃への魅力に溢れたものとなっている。「森の娘」と題されたその短編では、冒頭からどこかの森の中の地表のすぐ下にある、四角い箱ので腐りながら地上へと突き出した「潜望鏡」によって、戯れる娘を見て安寧を得ている男の姿が描かれる。

 休養のために旅行へと出た青年医師が、ホテルで踏んだ錆びたカミソリがもたらしたもの。痛めた足のために、観光へと向かわずバルコニーで休息していた青年を、隣のバルコニーからカメラマンが撮影した行為が意味するものは、普通だったら恐慌をもたらすはず。なのに読み終えて抱くのは、幸福のうちに朽ち果てていくことの、なんとも言えない甘美さだ。

 ほかにもウジェーヌ・アッジェやラルフ・ギブソンといった写真家がモチーフとして取りあげられていて、それぞれのファンにただ写真を見ているだけは絶対に到達できない、小説家ならではのイマジネーションの冴えを示してくれる。むろん写真に詳しくない人でも、物語を紡ぐ行為から逆算した写真の楽しみ方を教えてくれる。

 巻末に収録された「少女戴冠」が、短編によって描き出されるイメージも、元となっている写真のビジョンも強烈で、写真と小説、その双方が斬り結んだ果てに生まれるコラボレーションの素晴らしさを見せてくれる。

 取りあげられているのはチェコの写真家で、異形の人たちの異様な姿を撮影したシュールレアリスティックな写真で知られるヤン・サウデック。片方の手を欠き、胸の片方をえぐり取られた少女が写された1葉の写真から、小説家は異形でありながらも幸福でありえた人たちの想いを汲み上げ、いつか訪れるだろう死さえも心安らかに迎えられそうな、満ち足りた気分にさせてくれる物語を紡ぎ上げた。

 たった1葉の写真、たった1枚の絵から、想像力を駆使し、創造力を発揮して2次元の図像の向こう側に広がっている世界を見ようとする試みの、生み出したさまざまな物語を知ることで、世界をただ目で眺めるだけではなく、無限に広がる世界で起こるだろう無数の物語を感じる力を得ようではないか。


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