いちげつものがたり
一月物語

 見た目が大事なのだ。と言っても人間ではなく本の話。表紙にぽちゃぽちゃでぷりんぷりんでぼんぼーんな女の子の写真を載せたという、物語自体とはあまり関係のない部分でもなく、物語を綴る文字の見た目が、物語そのものにとっても大事なのではないか、という事だ。

 何故なら人間が本を読む時、たいていは目から文字情報をインプットして頭の中で何がそこに描かれているかを理解する。目で見る以上はその文字の色艶形もやはり情報として入力される。そういったものをノイズとして除外し、何が描かれているかのみを理解へと変えることが正しいのだと、言って言えないことはなくむしろそれが主流に属する言い方だろう事も解っている。

 けれども人間がそこまで果たしてドライになれるのか。同じ文字でも例えばクニュンクニュンの丸文字で綴られいた物語だったとしたらさて、人はそれでも同じ理解へとたどり着くのだろうか。クニュンクニュンな丸文字ならではの理解へとたどり着くのではないかと、それがどうとは明言できないものの想像をしてみることは十分に可能だ。

 そこでさて。平野啓一郎が芥川賞受賞作の「日蝕」に続いて送り出した長編「一月物語」(新潮社、1300円)を見てみよう。ここに綴るのも躊躇(ためら)われる、というより漢字を探し出すことすら困難な漢字遣いのオン・パレードに、読み手は普通にストレートに綴られた場合とは絶対に異なる理解へとたどり着くだろう。

 それは馥郁(ふくいく)たる芳香とも、清冽とも豊潤ともいったポジティブなものから、鬱陶しいやら煩わしいやら騒々しいといったネガティブなものまで様々かもしれない。けれども確実にただまっすぐ平明に描かれた同じ内容とは(というよりおそらくは平明に同じ内容など綴れない)、異なる理解を読み手に与える事だろう。

 ここではポジティブな理解を土台に、物語の世界にとって見た目がどれだけ重要かを考える。話は単純といえば単純。東京で暮らす学生詩人がふらりと旅に出て奈良から吉野を経て熊野へと向かう。その途中、奈良県十津川村の山中で迷い蝮に咬まれて意識を失い、気付いたら山深い場所にある炭焼き小屋を改装した小さな寺で、1人の僧侶から介抱を受けていた。

 僧侶は彼に奥の小屋には近づくな、病気の女がいて醜い姿を見られたくないと言っているからと求められ、彼は従いしばし養生に励む。うちに夜な夜な夢に長い髪の女が現れ全裸の後ろ姿を彼に見せ、目覚めてその女に惹かれている自分に彼は気付く。だがそれも束の間、僧侶より山を去れを言われ彼は山を降りる。そして麓の宿屋の女将より、蛇と契った女の話、その女が生んだ不吉な眼を持つ娘の話を聞いてもしやと考える。

 途中挟まれる鴉揚葉の描写が彼をしてその身を襲った不思議な体験を、あるいは夢の中での事かと思わせる。と同時に、もしやこれが誰かの夢ではないのかと悩ませる。中国に伝わる「蝴蝶の夢」の物語も引き合いに、現実と夢とが混ざり合い溶け合い、その中で因縁とも宿業ともいえる愛に叫び合う男と女の姿が描かれ悲劇は幕を引く。

 なるほど図式は単純なファンタジーも、明治という迷信も怪異も日常茶飯事に起こり得た、かもしれない時代を舞台に夢に燃えつつ燃え切れない文学青年と、嫉妬ともいえる感情を奥底に秘めて淡々と日々を勤める僧侶と、妄執に熱く身をよじる女の絡みを描く物語の、その文字が堅く古めかしい、けれども妖しく眩しい漢字だった時に頭に結ばれる情景は、平明な文字だった時より必ずや物語に相応しいに違いない。事実そうだった。

 熱くたぎった交歓の情景が仰々しくも格調ある文字によって増幅され、血と汗と樹と水の匂いが白い紙と黒い文字の集合でしかない本の間から立ちこめる。それが作者の意図した事だという保証はなくまた全くもって筋違いな理解かもしれないが、少なくとも人間が目から圧倒的に大量の情報を得ている以上、そうした筋へと理解が及ぶ事を、否定できはしないだろう。

 結果として得られる官能と感動が、内容にそぐうものである以上はその漢字遣いを擬古調と非難し平明な文体での感動をこそ大事と言うつもりはない。必然として用いられその効果を遺憾なく発揮している漢字遣いにどうして文句など言えるだろう。

 もちろん中身は大事。だが見た目も大事。ビジュアルだマルチメディアだと余計な情報に頭が向かっている昨今、もっとも物語に近いビジュアルである漢字遣いを研ぎ澄まし、見た目たっぷりな物語を作者にはこれからも求め続け、読者へと送り続けて頂きたい。


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