遺産の方舟

 2001年秋時点のトピックで言うなら、美術や文化財の保護と人間の営みとの、時に激しく反発しあう関係を表す例として、アフガニスタンで時のタリバン政権によって行われた、バーミヤンにある仏教遺跡の爆破という事件が挙げられる。いちおうは、イスラム教徒として許されない偶像崇拝に繋がる大仏を爆破したという、宗教的な建て前があるけれど、経済封鎖によって行き詰まりを見せていた政権が、世界遺産でもある「バーミヤン大仏」を”人質”に取って、自分たちの主張を世界に向けてアピールして、生き残ろうとしたんだという見方も、一方にはあったりして奥が深い。

 もちろん世界の心ある人たちは、同じイスラム教徒であっても、宗教的にも美術的にも人類の文化史的にも貴重な遺跡の破壊を止めさせようと、タリバン政権を脅したりなだめたりしたし、日本でも画壇の偉い人を中心に、破壊反対の声が巻き起こった。けれどもタリバン政権の希望を聞こうとしないで、ただ貴重だから、世界遺産だからという理由だけで反対したところで、生き残るにせっぱ詰まった耳には届かない。ものが仏教遺跡だったからなのか、世界の大部分をガッチリと握っている宗教的には仏教とは異なる人たちが、爆撃とかいった派手な手段で「バーミヤン大仏」を守ろうとすることもなく、残念にも大仏は残っていた2つともが爆破され、今はただ壁に穿たれた空洞だけを残して消えてしまった。

 タリバン政権はその後、米国で数千人を殺害したテロリストをかくまい支援したという疑いで、文字通りの集中砲火を浴びて、政権を明け渡さざるを得ない状況へと追い込まれた。果たして本当にテロリストと表裏一体なのか、という問題があってそれが事実なら非難を浴びるのは妥当だろう。ただ世界遺産では顔はしかめただろうけれど、行動は起こさなかった国々が、人を殺され安全を脅かされたとみるや、海を越えて軍隊を送り込んで、驚異をもたらした相手を叩きつぶそうとする姿を目の当たりにするにつけ、文化財とか美術品とかいったものなんて、国家の威信とか人間の生活とかいったものの前には、どれほどの価値も見出されないんだということが感じられて少しばかり慄然とさせられた。

 これがたとえば「ルーブル美術館」が舞台になって、そこに立てこもったテロリストが、全館の爆破と引き替えに莫大な金品なり、誰かの死なり政治的な要求なりを出して来たとき、どんな反応を見せるのかという疑問は依然として残る。辺鄙なアジアの山奥にある仏教的な遺産と、西洋における芸術的な叡智の殿堂とでは価値は違うという声もあるけれど、そうした声は声として、やっぱり美術とか文化といったものを上回って大切な、人間の営みがあるんだという主張が通りそうな気がするし、仏教遺跡を西洋美術の下に見られたくないという意識もあって、そういった主張が通るべきだという思いも強くある。生きるためなら美術品を火にくべ暖を取り、煮て食べたって構わないのでは、などと考える。

 考えるけれどもただ、そうしたところで生き残れないかもしれないという可能性が、もしも強まって来た時に人類は選択しなければならないだろう。どうせ滅びようとも最後の最後まであがき続けるか。それともどうせ滅びる身なら生きて美を育んだ証として人類の叡智を残そうといさぎよく身をひくか。「第2回日本SF新人賞」を「ドッグファイト」(徳間書店、1600円)で受賞した谷口裕貴の、受賞後第一作となる「遺産の方舟」(徳間書店、505円)で問いかけられるのも、そんな人類の遺産としての美術品や文化財の保護・伝承と、人類自身の悪あがきにちかい生への執着との対立だ。

 中国で蝶が羽ばたくと、ニューヨークに嵐が来るという「バタフライ効果」の例えは広く知られているけれど、そうまで極端ではなくても地球の環境は、ちょっとしたパラメータの変動によって大きく激変し、人類が文明どころか存在そのものを維持できないくらいにまでなってしまうものらしい。物語に登場する地球は、大西洋で発生した数年に及ぶ海温の上昇が、局地の氷を溶かし海岸線を海中へと沈めてしまった。残った陸地も、繰り返し発生する巨大な台風と激しい乾燥によって流され焼かれ、人が国を、社会を、生活を維持できないまでに荒廃した場所になってしまった。

 生き残った人類に残された道は少なかった。ひとつは、巨大なドームを作り中にかつての地表と同じ生態系を作ってそこへと移り住み、文明を維持しようというものだった。そしてもうひとつは、巨大な船の中に移り住んで生き延びようとする道。かつて「J・H・アレキサンダー」と呼ばれた最新鋭の空母は、今は「アレクサンドリア」と名前を変え、フライトデッキにまかれた土の上で作物を育て、文明が栄えていた時代の遺産を極力リサイクルしながら、台風や異常気象を避けて世界の海を漂い彷徨っていた。

 「アレクサンドリア」にはただ人類が生き延びるというだけでない目的があった。それが”遺産の方舟”としての任務。破滅しかかっている地上にかろうじて残された美術品を集め、保存しようとするもので、そのために「アレクサンドリア」にはそのために美術に詳しい学芸員が多く乗り込み、艦事態の統治も維持も運営も、学芸員が主導権を握って行っていた。軍隊は学芸員の下にあって治安の維持と安全の確保に務めるのが役割で、若き少尉のニコルもその例に漏れず、学芸員のトップとして「アレクサンドリア」を統べるレーベン師、ブキャナン師の命令により、日本の丹沢山地に残されたドーム「テラリウム」へとモネの「睡蓮」を取りに行かされたのだった。

 激変の当時、決して広くない「テラリウム」に入れたのは、どこの国でも一部の特権階級だけだった。そのため怒りに駆られた暴徒や生き延びようとすがる難民を避けるため、「テラリウム」の多くが防御のための設備を持っていた。ニコルと仲間の軍人と、まだ若い学芸員の望月和音もそのことは理解していて、日本が残した「テラリウム」に不用意に近づくことはせず、正式な客人として迎えてくれるよう正面から近づいて行き、来意を告げた。だが、そこで一行を待っていたのは、輝くばかりに美しいモネの「睡蓮」と、そして暗く恐ろしい人類の行く末を暗示する虚ろで悲しい事態だった。

 天候の変化がもたらした地表の荒廃、それを避けようとしてドームに閉じこもった人類が拠り所にしていた植物からの食物の確保に、天候の激変をも上回る暗雲が立ちこめていることが分かり、「アレクサンドリア」に住んではいても、美術の価値を絶対とする学芸員たちとは対立する人たちの間に動揺が生まれる。かろうじて生き延びていた人類の最後を想像させるだけの衝撃があって、それでも美術を愛でることにどれだけの意味があるのだろうかという疑問を巻き起こす。

 けれども学芸員たちは、何を置いても美術の確保を最優先させようとする。そのどちらが正しいのか、と聞かれれば未だ滅亡の危機を肌身に感じていない人類に答えることは難しい。人類の営みをこそ最重要と取るならば、「睡蓮」の美に、思い出にこだわり続けるレーベン師、ブキャナン師の姿はなるほど滑稽に思え、「睡蓮」など放っておいて生き延びることを考えようと訴えるニコルの方に、理があるように感じられないこともない。

 ただ、物語の中で示される、人類の魂の現れともいえる美術品がもたらした”ある効果”が、滅び行く人類は悪あがきなどせず破壊も行わず、後に美術品を遺して静かに退場していくべきなのでは、といった思いへと至らせる。人類の中に受け継がれなくても、そして人類の証と意識して受け止められなくても、美がもたらす効果をともに感じ、清められ慰められ高められる存在があるのなら、「遺産の方舟」を作るべきなのではないかという考えにとらわれる。

 結果的に主導権を明け渡したタリバン政権に、そんな滅びへの美徳があったら大仏は今もバーミヤンに屹立していたかもしれない。遅かれ早かれあと1億年もすれば絶滅するだろう人類が、目先の生活やプライドにとらわれたり、逆 生き残るためであっても遺産を破壊しなくてもいいではないか、といった思いも浮かぶ。これはいささか極端で、当面は滅びないだろう人類にとって美に優先させられるべき営みがあることも一方には理解できる。美を守るために死ね、と言われて死ねる人などなかなかいない。

 それでもやっぱり思うのは、生きた証をどういう形でどうやって遺すべきなのか、という問いへの答えだ。正解は未だ見つからないけれど、これからもたびたび、というより人類が生きて美術を生みだしている以上は繰り返し持ち上がるだろうこの問いに、”遺産の方舟”で示されたヒントを生かしていかなければと、崩れ落ちてもう2度と見ることのできないバーミヤン大仏の姿を脳裏に浮かべながら切に思う。


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