伊平次とわらわ1


 好きなのに、ずっと手を出してこなかった漫画家がいる。なぜなのかと聞かれても、なぜだろうとしか答えられないくらいに、その理由が思い浮かばないのだが、あえて理由を探すとすれば、その漫画家が描く世界が、あまりにも心地よすぎて、耽溺してしまうのが怖かったからなのだと思う。

 雑誌などで短編は読んでも、単行本を買ったことは、これまでに1冊もなかった。だからこの前、文春文庫から出た自選作品集「階段宮殿」(600円)を、坂田靖子さんの単行本として初めて購入した時、いよいよ自分も、坂田ワールドに取り込まれてしまうのかと思い、期待と不安がまだら模様に入り交じった気持ちで表紙を開けた。

 そしてやはりというか、想像通りというか、坂田さんの世界に思いっきりハマってしまい、抜け出せなくなってしまった。今日だって、本屋で坂田さんの新刊「伊平次とわらわ1」(潮出版社、550円)が出ているのを見つけて、1も2もなく購入したほどだ。ハヤカワ文庫JAから出ている3冊の短編集も、近いうちに揃えることはほぼ確実。ボーナスが近いこともあって、漫画専門店回りや古本屋回りをして、見つけ次第手当たり次第に、坂田さんの本を買うことになるだろう。ホント、ハマると泥沼の老いらくの恋、である。

 墓場のはずれに住んでいる伊平次は、投げ捨てられた死体を埋めたり、墓場が荒らされないように見張っている墓守。じいちゃんも墓守をやっていたそうで、子供のころから墓場に出入りしていたためか、他の人には見えないヘンなものが見える。だからといって決して怖がったりはせず、ただ「まいったなあ」といいながら、ぶん殴ったり、たたき出したり、食事をふるまったりして、ヘンなものとけっこううまくやっている。

 ある日、墓場で見つけたしゃれこうべを、ポイっと放り投げた伊平次に、「きゃあ」という人間の声が聞こえた。慌ててかけつけると、そこには犬が大の字になって目を回している。ツンツンと突っつくと、犬は意気をふきかえして「伊平次か?」と人語で聞いてきた。「わらわは中納言の姫じゃ」と、間抜けた顔で話しかけてくる犬を家に連れ帰り、そこから伊平次と化け犬「わらわ」の珍妙な共同生活が始まった。

 「不老不死」の仙薬を飲んで半死体になってしまった男の話や、魔除けの石を取り除いてゴミ穴を掘ってしまったため、そこから餓鬼がわらわらと溢れてきて、人々に悪さをする話、骸骨になっても現世への未練がたちがたく、メシを食い恨みを晴らしに歩き出す男の話など、あらすじだけを読めば、世俗の人々のあさましさを皮肉った漫画にしか聞こえない。それがどうして「ほのぼの」したり「ほんわか」したり「ほこほこ」したりするのかと言えば、やはり坂田さんの絵柄や描き文字に依るところが大きいと思う。

 「わらわ」だって「中納言の姫」が取り付いている割には、大食いで粗野で図々しく、とてもお姫さまには見えない。ともすればひどく残酷な設定と見られるところを、「わらわ」に対して友情(あるいは愛情)を傾ける伊平次の描写が救っている。「わらわ」がほんとうに犬にとりついた「中納言の姫」なのか、単に伊平次を化かしに出て来たヘンなものの一味なのかは、もはやどうでもよい事で、時にはケンカもするけれど、やっぱり仲がよい2人の(あるいは1人と1匹の)関係を、「にこにこ」しながら見守っている自分に気が付く。

 のほほんとしているようで、実は伊平次は侍の出身で、祖父ゆずりの守り刀で怨霊を追い払うことができる。もしかしたらこの辺りに、伊平次の出自の秘密が隠されているのかもしれないと、勝手な想像をしているのだが、第1巻に収録されているのは、「コミックトム」にポツポツと発表されて来たシリーズの、93年6月から94年10月までに掲載された分に過ぎないから、これ以降の掲載分の中で、すでに明らかになっていることかもしれない。

 「私知ってる」という、ご親切な方がおられても、決してお話にならないように。せっかくハマった坂田ワールド。じっくりと腰を据えて、1作1作を楽しんでいきたいのです。


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