不全世界の創造手

 正義とは何か。

 これは難しい問題だ。一方の側に立って正義を訴えても、反対の側にとってそれは脅威となる。悪になる。戦争している国で「正義は我にあり」と叫んでいる指導者を、表と裏から見ればよくわかる。

 絶対普遍の正義だってあるはずだ。例えば人道。人の命は地球よりも重い。だから最優先で救うのだ。

 と、そう叫ぶ声もあるかもしれない。かつても神の御名のもとで人道を行使した勢力があったし、今は世界的な機関がそれを行使して、人や機械や薬や軍隊を送り込んで争いを止めさせ、人命を救おうとしている。

 でも、本当に人の命はすべてに勝るのか。救いすぎた命は、ただそれだけでは保たれない。食べなければならないし、飲まなければならない。そんな命が大勢いれば、大地は食べ尽くされ、飲み尽くされて不毛へと向かう。

 生み出せば良いという。生産すればまかなえるともいう。けれども、そのために必要な物資を、すべての人が手にするまでには、どれだけの時間がかかるのだろう。誰がそこまでの支援を行えるのだろう。

 何をやっても行き詰まる。考えれば考えるほど無理だとわかる。

 放っておけないからと、水を撒こうとする意思の気高さは尊敬に値する。値するけれども、それで世界がすべて変わる訳がないという気持ちが一方にあって、未来を見る目を曇らせる。

 それでも、やっぱり放っておけないと踏み出す気持ちは、いつかそれ自体が目的と化して本質から遠ざかる。

 正義は、永遠に成され得ないものなのか。

 小川一水が「不全世界の創造手」(朝日新聞出版、900円)で提示するのは、だから絶対普遍の正義ではない。そんなものはあり得ないとわかっている。だからといって見放したりはしない。

 最初の一歩。はじめの手がかりだけを作り出すことで、世界に変化をもたらすことができるかもしれない。そのための方策を、SFという可能性の物語の中に示してみせる。

 少年がいた。戸田祐機。幼い頃から機械いじりが大好きで、12歳にして何でも取り込み、自分を複製する能力を持ったマシンを作った。同じ歳の子供には誰も理解できなかったその機械を使い、いつか世界を変えようと思い描いた。

 そして動きはじめた。発端は、父親が経営していた工場を、経済効率と生産性向上のお題目を振りかざす世界機関「世界生産に関する一般協定事務局(GAWP)」のアドバイスを真に受けた親会社に、買収されてしまったことへの憤りだった。そして、自分が生みだした機械を今こそ使って、世界を変えるべきだと決断した。

 アイディアをベンチャーキャピタルに送って審査を仰いだところに、現れたのがひとりで数百億円もの資金を動かすカナダ人の少女ジスレーヌ・サン=ティエールだった。母親譲りのあらゆる存在の生産性、将来性を見抜く異能の力の持ち主で、その力で稼いだ金を使って何かしたいと考えて、祐機が持ち込んできた機械に興味を抱いた。

 ジスレーヌの支援を受けるようになって祐機少年は、まずは南洋にあってリン鉱石が取り尽くされた島へと乗り込み、子馬のような形をした機械を使って、整地を始めた。人間が手作業で行えば、2000年はかかりそうな事業を、祐機が連れて行った子馬は自らを増殖させつつ、一気に作業してのけた。

 これはすごいと世界が目を付け、祐機はジスレーヌの支援で本格的に会社を立ち上げ、世界市場へと打って出る。ところが、各地で子馬が作業をする度に、自分たちの仕事を奪われるのではないかといった恐怖心から、地元の人たちの反発がおこった。

 祐機は不思議がった。新しく生まれた豊饒な地を使えば、どんな新しい事業でも行えるだろうと少年は訴えた。けれども、今を変えたくない人にとって、未来の可能性などゼロも同然。反発を食らい、かつて祐機の父親の工場を奪ったGAWPも祐機の発明を我が物にしようと画策して、祐機やジスレーヌたちを追いつめていく。

 そして両者は、アフリカのソマリアを舞台に雌雄を決することとなる。長く続く苛烈な民族紛争を止めようとして、GAWPは祐機の子馬の力を模した、別の子馬を送り込んだ。罪を犯そうとする者を押さえ込む力を持った子馬が、町に久々の平和をもたらした。

 けれども、国はそのまま平和にはならなかった。ゲリラは山なりジャングルへと逃げ込み、抵抗を続けた。押しつけられる秩序なんて認められない。そんな反抗心も働いたのだろう。

 地方にも目が行き届かなかった。貧富の差が生まれて、底辺での鬱屈を増大させた。結局は元の木阿弥。世界的な機関が権力を振るっても、紛争をなくして平和をもたらすことは出来なかった。

 無駄なのか。放っておくのが正しいのか。それは違う。違うけれどもどうすれば良いのかわからない堂々巡り。解決する方法は容易には見つからない。見つかればそれは世界が平和になることだから。

 祐機はけれども、放っておきはしなかった。そして与えた。水と知識。それだけを、けれども確実に届けることで何かを変えようとした。

 便利な機械がもたらす怠惰は恐い。けれども、人がすべて怠惰に溺れることはない。余裕が生まれればきっとそこから何かを生み出そうという意欲が生まれてくるのだ。

 自分たちのやっていることは正義か。それとも偽善か。祐機にも葛藤はあった。やったところで、何を決定的に変えてしまった訳ではなかった。

 だからといって、やらないよりはやったほうが遙かにまし。そんな気持ちを失わず、効率性と確実性を持った方法で、少しづつ進んでいこうとする祐機の、ジスレーヌの意思の確かさに、どうであっても前を向くべきだという気持ちをかき立てられる。

 ささいなきっかけさえあれば、人は大きく変われるんだと伝えるメッセージに、誰もが答え、自ら足を踏み出す勇気を、誰もが育むことができるようになれば、世界は大きな変化へと向かうだろう。

 現実には、さまざまに複雑な問題が横たわる。そうはうまくいかないかもしれない。ジスレーヌが母親ともども持つ生産性を見通す能力が、現実に存在するかも疑わしい。合理性に覆われてしかるべき物語のブラックボックスになっていて、実現性への懐疑を生む。

 もっとも、直感ではなく合理性から判断して、祐機に支援を行う可能性だってある。話をスピーディに進める道具立てに過ぎない異能の力は本質ではない。何かを成し遂げようとする意思。それを支える素晴らしさ。そんなことを感じ取らせることができれば、物語に込めた本意は果たせたのではないのだろうか。

 読んで感じて、あとは考え動くだけ、だ。願うなら、この物語があらゆる言語に複製されて、世界中で読まれるようになり、何でも良いから前向きの変化が起きてほしいもの。考える正義より動き出す勇気。それさえあれば、世界は変えられるのだと知ろう。


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