モーティマー夫人の
不機嫌な世界地誌可笑しな可笑しな万国ガイド

 世界のどんな場所とでも、瞬時に情報のやりとりが出来る時代になったところで国境とか、人種とか宗教といった“壁”が消えることはないし、そこから生まれる偏見が拭い払われることもない。

 それは偏見が空想の産物ばかりとは限らないからで、ひとつの事実をきっかけに、長い年月にわたって隔てられた“壁”の向こうとこちらがわで、事実の理解と運用が行われた結果、偏見となり心に染みついて、なかなか落とせなくなっているからだ。

 さすがに今時、アメリカ人はどこに行くにもテンガロンハットを被っているんだとか、ドイツ人はソーセージとビールが主食だとか、名古屋人はエビフライを毎日のように食べていると思っている人はいないだろう。

 ジョークの種にはなっても事実ではないと、活発になった交流から理解できる事柄を、いつまでも引きずるほど人間は愚かではない。仮にそういう認識があったとしても、ネガティブなイメージとして相手を迫害する理由に、これらはあまり成り得ない。

 日本人は出っ歯で眼鏡をかけていて、カメラを首からかけていると外国人が抱く偏見も些細なことだ。放っておいても害はない。むしろ、何か起こったり誰か有名人がいれば、街頭であろうとレストランであろうと、ところ構わず携帯電話を向けて撮影する日本人の多さを見れば、偏見どころか真実に近いのかもしれないと、外国人から思われたって仕方がない。偏見には理由があるのだ。

 問題はだから、偏見が単なる偏見に止まらず、他人を傷つけ自分を弱らせ、新たな偏見を生んで行くことにある。

 19世紀のロンドンに生きた、児童文学作家のモーティマー夫人が書いていたという、世界の国々についてのガイド「モーティマー夫人の不機嫌な世界地誌」(トッド・プリュザン編、三辺律子訳、バジリコ、1500円)は、実に多くの偏見と思いこみに溢れた本だ。例えば。

 ドーバー海峡を挟んだ隣国フランスについては分かっているようで、流行に敏感でおしゃれな人たちだと誉めている。けれどもスペイン人については怠け者の上に陰気で残酷と言い、ロシア人は金持ちは傲慢で貧乏人は不正直でずるがしこいとと容赦ないと書く。ドイツ人は働き者だが女性は空想の世界を描いた小説ばかりを読んでいて、それなら何も読まない方がましだと痛烈に皮肉る。

 日本に至っては、誰もが礼儀正しいけれども切腹という邪悪な風習があって、その作法を5歳の時から学び始める恐ろしい国だと書く。中国人は弁髪をしているため常に帽子を被っていると書くのは、ある意味で正解か。確かに当時はそうだった。しかし中南米やアフリカについても、それぞれに事細かく書いては野蛮だ不潔だ不信心だと批判するのはいただけない。

 なでならモーティマー夫人、現地を見聞したことは皆無で、それどころか1度も英国から出ることはなかったというからたまらない。そんな人物が、欧州にアジアに北米南米アフリカと、世界のほとんどすべての国々について知ったような記事を書いた文章が、真実であるはずがない。伝聞による推量と書物の記述のみから描いた虚構を非難する、ドン・キホーテの如き蛮勇としか言いようがない。

 そういった観点からとらえるならばこの本は、西洋の文明人が異国の未開の人たちを半ば見下して書いた、思い込みに根ざした傲慢ぶりを現代の視点から嗤い、予断と偏見は慎むべきだと学ぶ、反面教師的な役割を担うようトッド・プリュザンに編まれ、刊行されたのだと見てとれる。

 冒頭の前書き部分でプリュザンは、カナダのトロント市長がケニアを称して「原住民たちがぐるぐる踊り回る光景が目に浮かぶ」と言い、イタリアのベルルスコーニ首相がドイツを称して「ドイツ人がユーモアのセンスに恵まれているなんて思ったこともない」と言い、米国務次官代理のボイキンがソマリアにおけるイスラム教徒との戦いに関して「わたしの神は、彼の神より偉大だった」と言ってのけた現代に残る偏見の具体例を挙げる。

 地位も教養もある人たちですら、偏見に溢れているこの事実を鑑みれば、世界に通じていなかったモーティマー夫人が、予断による偏見に溢れていたって、それを嗤うことなっど出来ない。そして人間には今も“壁”が生み育んだ偏見が渦巻いているのだということをクローズアップし、改めるべきだと啓発しているのだと、この本が位置づけられても仕方がない。

 けれども、果たしてモーティマー夫人をただ嗤って良いのだろうか? 理由は何であっても日本人が作法として切腹を幼少より覚え、責任を果たすために腹を切っていたのは事実だ。スペイン人への偏見も、かつて英国がスペインと激しく覇権争いをしていた時代を思い浮かべれば、英国人として仕方のないことだろう。

 米国の黒人奴隷についてモーティマー夫人は、恥ずべきことであり即刻奴隷は解放すべしと書いている。これのどこが偏見なのか。なるほど奴隷が常態化していた当時としては、機能していると南部の米国人たちが信じていた奴隷制度に対するネガティブな偏見だったのかもしれない。けれども現代から見れば、これは偏見どころか開明的な見解だ。今だって学ぶべきスタンスだ。

 だから偏見の是非が問題なのではない。ここに挙げられているモーティマー夫人の偏見がどういう理由から生まれたのだということを探求する方が重要で、それを突き詰め誤解があるなら糺し、理解に務めようとする努力の方が、偏見をただ嗤うよりも大切なのだ。

 ただ嗤っているだけでは、それこそ相手に対する偏見でしかない。誰かに偏見を持たれているなら、どこに原因があるかをまず探ること。逆に他人への偏見を抱いているなら、原因を探り誤解を認め、考えを改めること。謙虚に務め冷静に考えることの大切さというものを、編者や版元がそうは意図していなかったとしても、くみ取ることの方がより前向きで建設的ではないのだろうか。

 副題には「可笑しな可笑しな万国ガイド」とあるが、嗤って楽しむべき本ではない。嗤っているその態度こそが、嗤われているのだと知るべきだ。


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