星を墜とすボクに降る、ましろの雨

 「緋色のスプーク」のササクラが帰ってきたとも、ササクラの「緋色のスプーク」が蘇ったとも言えると読み終えて感じる人が多いかもしれない。名を藍内友紀と変えて応募した第5回ハヤカワSFコンテストの最終候補作に残り、「星を墜とすボクに降る、ましろの雨」(ハヤカワ文庫JA、740円)として刊行された物語には、地球に迫る星を狙い撃って破壊する任務に就き、それだけを使命とも誇りとも思うスナイパーたちが登場する。

 手にした銃器を撃つのではなく、軌道上の庭園と呼ばれる場所で地球からデータを得て、特殊な眼で観測してトリガーを引くと、離れた場所に置かれた巨砲<トニトゥルス>が発射され、地球圏に迫る星を撃ち抜き砕く。そのために生み出され、育てられた存在がスナイパーだ。

 そんなスナイパーのひとりで、霧原という名を持つ少女が主人公。神条という整備士を専属にして星を撃ち続けていたが、そんな日々に変化が訪れる。ひとつはスナイパーとしての限界。チップを埋め込まれ駆使された脳はいずれ崩壊する。もっとも、その時を霧原は恐怖していない。なぜ? スナイパーは星を撃つことを至高と思い、星に自らを砕かれ死ぬことを厭わないから。むしろ望んですらいる。

 刹那的という感情すら持たないスナイパーたちが、いずれ迎える終焉を霧原も同様に感じていた。そこに、神条という整備士と同じ名字の女が現れ物語が動き出す。彼女の正体は、整備士の神条の元妻で、当人は籍は入れたままだから今も妻という神条ハヤト。その彼女から、霧原は家族という概念に気付かされ、いろいろと学んでいく。

 やがて軌道庭園に星が迫り、霧原の環境も激変する。もう止めれば? でも止めない。そこから物語は終焉へと向かっていく。

 砕かれても星を撃ちたいと願うスナイパー。その心理に訪れた変化も、命を引き替えにして星を撃つという目的を変えることはなかった。愛や家族といった旧弊な観念に囚われず、かといって拒絶もせいないで自分を貫く霧原に世代間、あるいは種としての隔絶を観る。「星を墜とすボクに降る、ましろの雨」はそう、ある種の断絶の物語なのだ。

 大人たちは子供たちを慈しみ、理解もしてその思いに取り込もうとする。でも子供たちは自分たちの価値観を持ち、その観念に従って生きようとする。知ったかぶりをしても子供たちは笑って退ける。そんな隔絶が感じられる物語。それはこの小説への理解も同様に刺す。

 描かれる霧原のある決断、そして帰結を歓待したいかというと、大人には苦みがある。でも子供たちにそれは無い。分かったふりをするより認めて眺めるしかないその行く末に、それでも大人として苦渋を感じるしかないのだろうか、たとえウザいと思われようとも。そんな複雑な味わいを感じられる物語だ。

 読み終えれば思い出すだろう。「緋色のスプーク」における戦闘機乗りの“赤の死神”ニケと、整備士アガツマとの関係を。諦観か虚無かといった感じに戦闘機を駆り飛び続けるニケとアガツマは、霧原と神条に少し重なる。もっとも、霧原と神条との関係はもっとピュアなもの。機会があったら読み比べて欲しい。

 降り注ぐ星という戦慄を抱えつつ、人造の兵器によって凌ぐ人類に未来はあるのか? そんな環境に置かれた地球は、どんな政体や社会を持っているのか? そういった設定も気になるところ。マクロな状況下でミクロの関係が描かれ、それがマクロに跳ね返る所が想像の成果だ。

 地球にとっては重大な状況でも現場では淡々と事が進んでいく辺りの空気感と、それを紡ぐ筆には、<雪風シリーズ>を始めとした早期の神林長平の雰囲気も感じられた。その筆致と突き放したような世界への視線は独特。だからこそ次を期待したいし、書き継いでいって欲しい。そんな作家だ。


積ん読パラダイスへ戻る