星の海に向けての夜想曲

 1923年9月1日を境に、日本という国の何か、日本という国に生きる人の何かが変わったと、細かく調べていけば幾つもの事例が出てくるだろう。もっとも、2000年代を生きている人たちが、80年近く昔にあった出来事の、何がどのように影響しているのかと問われて、すぐに答えることは難しい。

 天変地異のその時、その直後に人は誰もが深刻に今の惨状を思い、未来への影響を思って考える。当事者として、大変な時代に生きている恐怖と、大層な時代を生きているという興奮の中に陶然としつつ、悲観を前面に立て、楽観を廃して苦悩してみせる。けれども。

 それも長くは続かない。1945年3月10日の徹底的な破壊は、22年前の思索を吹き飛ばし、塗り込めて、別の思いの中に人を立たせた。それすらも、10年を経て発展する街並みの中に置き去りにされていった。

 2011年3月11日を境に、日本という国で社会にも、人の心にもさまざまな変化が起こった。今も変化は続き、未来に大きな影響を与えるのではないか、という指摘も成されている。

 それは本当か。過去の類例になぞらえるなら、あの関東大震災も、東京大空襲も、良い意味でいうなら乗り越えてきたし、悪く言うなら忘却の彼方に押しやってきた。そんな人たちが、いつまでも2011年3月11日を引きずり続けるものなのか。世界を変える礎にして、未来を幸いへと導こうとするものなのか。

 分からない。というより、今に陶然としている人には分かりようがない。しばらく過ぎて、立ち止まって見渡して、何かが変わっているかと思うかもしれない。さらに過ぎて、すでに歴史として客観視されているかもしれない。

 ただ1点、過去と2011年とで違うところがあるとしたら、原子力発電所の事故という、かつてなかった事態が含まれていることか。佐藤友哉の「星の海に向けての夜想曲」(星海社FICTIONS、1050円)はあるいは、2011年3月11日を発端に起こり、今も続いている未曾有の事態が、遥か未来に与える影響めいたものを、想像して総括してみせた物語かもしれない。

 2011年に空に突然現れ、全天を埋め尽くした花の下で、人間たちは降り落ちる花粉に影響されて、花粉病を発症して理性のたがを外し、破壊と殺戮に走るようになった。そんな殺伐とした光景の中で、転がり並ぶ死体を踏み越え、嬌声を上げながら女が歩く最中に、どこかから少女が助けを求めて電話をかけてきた。

 そんなエピソードを発端に、連作のように綴られていく物語は、まず四半世紀が経って未だ続く花粉病の恐怖から、罹患した者はすべからく殺すべしという仕組みが機能した社会の中を、それでも七夕の日の空を見たいと、少女が学校に居残り、空を見上げて花が割れ、枯れ落ちてそこに満天の星を見せる瞬間を、待ち望むエピソードへと続く。

 絶対に消えないと思われていた花が枯れる瞬間があることを、国は分かっていながら誰にも伝えず、誰の目からも隠そうとしていた。そんなシチュエーションは、情報をしぼり、肝心なことを伝えようとしない今の政治への皮肉なのかか。もっとも、それが放射能のように世界を覆った花の驚異が途切れる瞬間というのは、捉え方が逆になる。あるいは放射能の恐怖を盲信する風潮に、異論を唱えようとしたものなのか。

 それからしばらく経って、花粉病に罹ったからと殺されるはずだった患者たちの中にも、病気の発症を逃れ、暴走せずに理性を取り戻す者が現れるエピソードがあり、90年後の世界で、シェルターの外に出て行ってそこに寝ていた老人と出会い、花粉病と花の正体に迫る情報を得るエピソードがあって、800年が経った世界で、人工的な存在たちが、天の割れる時を示した少女の予言に思いを馳せるエピソードへと至る。

 世界はそこで、恐るべき手段をとって花を散らそうと試みていたことが明らかになる。毒には毒を。猛毒には猛毒を。パンドラの箱が開き、飛び出してきた狂喜にとりつかれてしまった人類は、ただ滅びるしかるしかないと思えてくる。

 もっとも、一方では、根本的な花粉病の問題は解決せずとも、人類はいろいろな手法で生き延び、空の花と対峙していけるのではという希望も浮かんでくる。相矛盾する感想から、今をどう感じ、これからをどう生き、そして、未来に何が残されるのかを考えてみるのが良さそうだ。

 空に一面の花というビジョンは、ある意味で華麗だけれど、別に思うならグロテスク。美と毒とが背中合わせで存在し、使う者によってどちらにでもなる状況に立って、選択を迫られている人類を暗喩するビジョンのよう。そして、今がまさに選ぶ時。どうするか。どうしたいか。


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