炎の天使
METAL ANGEL

 愛して欲しい、解って欲しいと思っても、そのことをぶつけるだけの勇気がなければ、黙っているよりほかにない。逃げ出すことで関心を引く? それは自意識過剰というもの。愛してとも解ってとも言ってこなかった相手のことなど、関心を持つ以前に、その存在に気がつくはずがない。

 それでも関心を持って欲しかったのだろうか。ナンシー・スプリンガーの「炎の天使」(梶元靖子訳、ハヤカワ文庫FT、780円)の主人公ヴォロスは、神に仕える天使の座を捨てて、地上へと舞い降りた。天では「気」でしかなかった天使が、地上で選んだ姿は痩身の美声年。その目はすべての女性と男性を魅了し、その声はすべての男性と女性の心を溶かす。膨らんだ股間をピッタリと包み隠すジーンズはリーバイスの501。だが彼の上半身には、虹色に輝く巨大な翼がついていた。

 地上に降りて人間となってまで、神に愛してもらおうとしたヴォロスの願いを聞き入れないために、神はヴォロスの転生に介入したのだろうか。ならば少しは、神もヴォロスの振る舞いに関心を持っていたと思えばいいものを、ヴォロスは憤怒にかられて街をさまよい、慣れない人間の体に傷を負う。痛めつけられて死線をさまよう。

 そこに通りかかったのが、ウェスト・バージニアに妻と子を置いて逃げ出して来た、カウボーイに憧れている元警官のテキサス。彼は暴力を受けていたヴォロスを助け、ホテルへと運び、翼に負った傷を治そうと看病する。やがてヴォロスは立ち直り、歌を歌ってスターとなった。心に浮かぶ言葉に曲を付け、ヴォロスは唄い続ける。七色に輝く翼を背負った天使のようなロックスターとして、脚光を浴び賞賛を受ける。しかし彼を天使として見る者は少なく、彼の心の内を図ろうとする者も、テキサスを置いて他に現れなかった。

 やがて1人の女性がロサンゼルスにやってくる。2人の子供を連れた、まだ若い女性の名前はアンジェラ・ブラッドリ。信仰心の厚い夫と暮らし、牧師の父親からはロックはおろか派手な服装も化粧すらも禁じられた、閉塞感に満ちた生活を送っていた彼女を変えたのは、ラジオから流れるヴォロスの歌だった。そしてその歌詞は、彼女が抑圧された暮らしの中で、夫と父親の目から隠れて作り続けた、魂の言葉をつづった何編もの詩、そのものだった。

 ロスにたどりついたアンジーと、ヴォロスの警備担当者になっていたテキサス、そしてヴォロスをマネージメントし、夜はヴォロスと寝ていたゲイの青年メルセデスの3人は、やがてヴォロスをめぐって「愛の鞘当て」をするようになる。ヴォロスの元を去る者が現れ、ヴォロスを裏切る者が出て、神に愛されんがために人間になったヴォロスは、人から愛されることの悦びを知り、人を愛することの痛みを知った。

 神という「天に在(ましま)す我らの父」の愛を欲して受け入れられなかったヴォロス、自分を虐待して失踪した父への復讐心を心に秘めたテキサス、宗教に生きることを強要する牧師の父から逃げ出したアンジーと、主要な登場人物たちはいずれも、父親に対して憎しみの感情を抱いている。だが、翼を失って人間となりテキサスという父親を得ることが出来たヴォロスや、ヴォロスを息子のように思えるようになったテキサスが、それぞれに元の父親への憎しみを昇華できたのに対して、自分を追ってロスまでやって来て、ヴォロスを傷つけようとした牧師の父親に対するアンジーの憎悪の感情は、最後の最後まで尽きることがない。

 ヴォロスとテキサスが父親に対して抱いた憎悪の感情は、自分を愛してくれなかった父親への、思慕の情の裏返しであったのかもしれない。だが、アンジーが父親の牧師に抱いた憎悪の感情は、自分を愛し過ぎた父親への、純粋な反発の感情によるものだった。求めて得られないことに起因する憎しみは、得られた時かあきらめた時に昇華される。だが、欲しくなくても押しつけられる感情への憎しみは、押しつけて来る相手が存在し続ける以上、自分独りでは絶対に昇華できないものなのだ。

 お互いに心地よい居場所を見つけることが出来たヴォロスとテキサスに比べて、文字どおり父親を「殺して」夫とよりを戻しアンジーは、それでも幸せになったように見えない。姿を見せない者共からの、押しつけがましい愛が流行の世の中で、押しつけられた愛を憎んだアンジーのこうした結末は、少しばかり残酷のような気がするが、愛情の対象を代替することで幸せを得た男たちに比べて、最後まで愛情を拒否し続けた女の方が、自立心が強いのだと思えば、なるほどこういう結末も、決して悪いものとは言えないのだろう。
積ん読パラダイスへ戻る