緋面都市
HIMEN TOSHI

 偉い詩人の奥さんが、「東京には空がない」と嘆き悲しんでから、もう半世紀以上が経っている。東京の空の荒み具合は、もはや半世紀前の比ではなく、夜に見える星の数はめっきりと減って、昼間はくすんだ空気が遠景の山々を霞ませている。けれども未だ空は青くこの目に映り、陽光は燦々と降り注いで地上を暖め続けている。

 いつか本当に「空がない」ことに気がついた時、つまりは「空を失った」時、人間は当たり前のように感じて来た「空」の明るさと暖かさを懐かしみ、それを失ったことを嘆き悲しみむことになるだろうか。それともあるがままを受け入れて、暗闇の世界で逞しく生きていくことを選ぶのだろうか。

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 樹川さとみのSFアクション「緋面都市」(角川スニーカー文庫、600円)は、「井戸」と呼ばれる光の届かない地下世界の最下層で、1人の貴族の青年が、ボートの中で倒れていたところを発見される場面から始まる。青年、と呼ぶにはまだ幼い顔立ちのその男、アルフォンス・M・モーザンペレ卿は、地下世界の中でも上層部の都市、その都市の中でも裕福なことで5指に入る「青海都市」からの逃亡者だった。

 アルフォンスを発見したのは、幼く愛くるしい容貌からは想像がつかないほどの凄腕のハッカーとして、いっさいの法が存在しない最下層の都市で生きている少年、ルーイだった。ルーイはアルフォンスを助け上げ、この時のルーイのように、かつて自分を保護してくれた青年、レオンのところに連れていく。本屋の不愛想な店員として、ひっそりと暮らしているレオンは、都市からやっかい事を背負って逃亡してきたアルフォンスの事情を察して、即座に放り出すようルーイに告げた。しかし、ルーイの懇願に負けたのか、あるいは妙な所で面倒見の良い性格が災いしてか、そのままアルフォンスをかくまうことに承知してしまった。

 貴族の3男坊として生まれ、都市の指導者の近衛部隊にいたこともあるアルフォンスが都市を棄てたのは、1人のアンドロイドを助けようとして、貴族の1人を殺害してしまったことが理由だった。不思議なことにアンドロイドのイヴァンは、自分が貴族を殺害したのだと言い張って官憲に捕まり、厳しい尋問を受けてもアルフォンスが真犯人であることを明かそうとはしなかった。「井戸」へと逃亡する直前、「なぜ助けたのか」と問うアルフォンスに、アンドロイドのイヴァンも「なぜ助けたのか」と聞き返した。アンドロイドに見せた親愛の情が、人の心を持ち得ないアンドロイドに罪を被らせたのだろうか。そう考えながら、アルフォンスは地下都市での生活に慣れようと必死になる。

 そんなアルフォンスとレオン、ルーイの生活に、間をおかずやっかい事が持ち上がる。無口な青年レオンは、2年前まで凄腕の傭兵として活躍していたが、今はばく大な借金を負って「井戸」の支配者から追われる身だった。身辺に危険が迫ったのを察知して、レオンはルーイとアルフォンス、そしてかつての傭兵仲間、黒人美女のキカと連れだって、別の「井戸」へと逃亡する。そして、勝ち残ればすべての貴族の上に君臨する皇帝への謁見と、ばく大な賞金が得られるサバイバル・ゲーム、「緋面都市」への参加を決断する。

 地上で唯一の完全な、けれども1人の貴族も住まない都市「緋面都市」が作られたのはなぜか。地下に暮らす人々は地上へと移り住むことができるのか。様々な謎に向かってアルフォンスとレオン、ルーイたちのチームはサバイバル・ゲームの中を突き進む。そして戦いの果てに、イヴァンと自分との関係と再認識させられるようなルーイの真の姿をアルフォンスは発見し、皇帝が多くの命を賭して作り上げようとしていた地上の楽園が持つ意味を、レオンたちは一行は知ることになる。

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 地下都市でも宇宙都市でも良い。抑圧された場所に押し込められた者たちの、解放を願うエネルギーがパワーとなり、新しい時代を切り開いていく話は数多い。しかしレオンたち「井戸」の底の住人たちからは、地上を目指そうと必死になるパワーのほとばしりがあまり感じられず、命を賭けてサバイバル・ゲーム「緋面都市」を戦うに足る動機が見い出せないのが気になった。レオンやキカはもともと金で動く傭兵であって、青空とかお日様の光のためなどという「偽善的」な理由付けなどなくても、賞金さえあれば戦う理由は成り立つのだが。

 むしろ「地上」に一番近い場所にいた貴族のアルフォンスが、クルーの中でただ1人、そして最も強い地上への強い憧れを抱いて、「緋面都市」を戦っていたような気がする。かつて近衛部隊を辞めてまで地上観測所への転勤を希望したアルフォンスだけあって、都市を追われて「井戸」へと逃亡したことで、なおいっそう地上への願望を強めたのだろう。あるいは分解されかかっているアンドロイドのイヴァンを救うために、皇帝の元に赴く必要が彼を必死にさせたのかもしれない。

 この小説が一人アルフォンスの成長を描いたものである以上、彼を助ける脇役を演じ切ったレオンとルーイの、「地上」ではなく「安寧」を求めての果てしない旅は、また別の機会に描かれればいい。気がかりなのはラストに暗示される、アルフォンスを地下へと追いやり、レオンとルーイに出会わせ、再び地上へと押し上げたある種の「意志」の存在だ。皇帝すらその「意志」に従う小道具に過ぎないのか、はたまた「意志」とは一線を画した勢力たり得ているのかが明示されないまま、ひとまず幕を閉じる物語のその先を、レオンとルーイのその後とともに、つい想像してみたくなる。


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