ハートに火をつけて!だれが消す
 SFでもやってなければ、鈴木いづみのことを1生知ることはなかっただろう。ジャズでもやっていれば、阿部薫という不世出のサックス・プレイヤーの妻として、阿部薫の才能を食いつぶした悪女とかいった、そんな中傷めいた言説が耳に入ってきたかもしれない。だが、なにしろYMOと山下達郎と松田聖子は聴いても、ジャズには一顧だにしなかった音楽生活だ。阿部薫という名前を経由して、鈴木いづみという名前を聞くことはなかったし、逆に鈴木いづみという名前から、阿部薫というミュージシャンの名前にたどり着くこともなかった。

 高校に入った81年の夏から「SFマガジン」を読み始めた。今のように大量に本を買い込んで、何カ月も何年も読まずに積み捨てておくなんてことはなく、なけなしの小遣いから600円なにがしを支払って買った「SFマガジン」を、何度も何度も繰り返して読んでいた。

 10月号か11月号だったと思う。鈴木いづみという人の、「カラッポがいっぱいの世界」という作品が掲載された。同じ頃に「恋のサイケデリック」という単行本も出版された。作品についても単行本についても、どんな内容だったかは覚えていない。いや、鈴木いづみという名前を、その後何年も覚えていたのだから、何か心に引っかかるものがあったに違いないのだが、それが何だったのかが、今に至るまで思い出せない。あるいはただ、「サイケデリック」という言葉への関心とか、作品から受けたケバケバとした原色のイメージとかが、網膜に焼き付いていただけなのかもしれない。とすれば、よほど強烈な色彩だったのだろう。

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 次に鈴木いづみの名前を目にしたのは、川本三郎の自叙伝ともいえる著書「マイ・バック・ページ」の中だった。読者の戦争体験を募集したことろ、戦後生まれの「20歳、スナックバー勤務」の女性が応募して来た。会いにいったが現れず、近所の喫茶店のマスターから彼女がピンク映画の女優であることを教えられた。後に彼女が文章を書くようになったことを知り、成功に拍手を送るようになったという。

 なるほど、人の縁とは奇妙なものだと思っていると、続いて衝撃的な1文が飛び込んで来た。「彼女はこの原稿を掲載したSWITCH誌が発売された直後、86年の2月なかばに自殺した。自宅の二段ベッドにパンティストッキングを使った首吊り自殺だったという。しかも自分の子供のかたわらでという壮絶な死だったという。三十六歳の死−。」鈴木いづみが死んでいたことを、その時初めて知った。

 九四年に文遊社から刊行された「鈴木いづみ 1949−1986」にも、この文章が転載されていた。他にも荒木経惟、巻上公一、近田春夫、末井昭といった、生前に交流のあった人たちの文章が、書き下ろしか、あるいは過去の著作の転載といった形で掲載されていた。ミュージシャンとか編集者とかいったフィールドの人たちが多いなかに、中島梓、眉村卓、堀晃、川又千秋、亀和田武といったSFフィールドの人たちの文章が掲載されていて、ひどく違和感を覚えた。

 SF作家として鈴木いづみを知った時分なら、違和感は他のミュージシャンとか編集者とかいった人種へと向けられたはずなのに、今はSF関係者の方が、鈴木いづみという人を語る上で、異質な存在になってしまっている。鈴木いづみの再評価が、荒木経惟の撮影した写真が刊行され、稲葉真弓の小説「エンドレス・ワルツ」で描かれ、70年代を疾走したサイケデリック・ヴィーナスとかいった方面から始まったのに、SFの方からは、大森望氏が雑誌「本の雑誌」で「恋のサイケデリック」に関する文章を載せたくらいしか、目立ったアクションはなかった。早川文庫から刊行された文庫はすでに絶版となっていた。SFは鈴木いづみを忘れようとしていた。

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 「鈴木いづみ 1949−1986」を刊行した文遊社から、「鈴木いづみコレクション」の刊行が始まった。SF作品も第3巻と第4巻にまとめて収録されることが決まっている。しかし第1巻は、阿部薫との出会いから死までを描いた自伝的な小説「ハートに火をつけて! だれが消す」だった。作家としては、SF関係の著作が1番多かった(2巻分も使うのだから)鈴木いづみの全集の第1巻が、阿部薫との生活を描いた私小説だったことを、SFに依って立って来た者として、少しばかり残念に思ったが、忘れ去っていた自業自得と言われてしまえば、返す言葉は何もない。

 78年の阿部薫の死から5年後に発表されたこの小説が、当時どれほどの話題になったのかは知らない。もしかしたら、天才サックスプレイヤーの愛を一身に受けながらも、「ジュン(作中のいづみの夫)は知っていたのだろうか。わたしが愛していなかったことを」と書く鈴木いづみの傲慢さが、阿部薫の側に立っていた人々から、猛烈な反発を受けたのかもしれない。だが、「ハートに火をつけて! だれが消す」で描かれているのは、与えられることだけにこだわった過剰なまでの自己愛ではないし、ジュン(阿部薫)の死の責任から逃れようとする自己弁護でも決してない。

 「パラレル・ワールドのわたしは、いまだにひとりで、日々をあそびほうけているかもしれない。ジョエルの京都へと行っているかもしれない。あきらめきれないのだ。ジョエルを、ではなくあのような毎日が」(197ページ)。ギリギリと羽交い締めにあったようなジュン(阿部薫)との生活の中で、いづみ(鈴木いづみ)は過去を振り返り、思い悩む。

 けれども、ジュン(阿部薫)の死を経て、いづみ(鈴木いづみ)はたどり着く。「これは罰だ、という気がする。自分の勇気のなさにたいしての。しかしそれは、ひどすぎた。つりあいがとれないほどに。この不条理をとりあえずわたしは受けいれている。ジョエルもそうだ。受けいれられなかったジュンは、死んでしまった。彼は人生に、時間に、力いっぱいたてついたのだ」

 「別の人生があったかもしれないっていう未練。で、会ってみればかえってそれはかきたてられたけど。だって、ぜんぜんふられてなんかいなかったんだもん。だけど、彼の生き方を見て、べつのことに感動したの。くやんでもしかたがないことは、後悔すべきじゃない、って」

 そこにはもはや、過去だけに心を奪われ、空想の世界に逃避する女の表情はない。ないはずだったのだが・・・・・。

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   「鈴木いづみ 1949−1986」の巻末に掲載された年譜によると、「ハートに火をつけて! だれが消す」の発表と前後して、鈴木いづみの足跡がぱったりと途絶える。そして86年2月のひっそりとした死に辿りつく。「ハートに火をつけて! だれが消す」は、過去を清算した鈴木いづみの新たなる出発の礎とはならなかった。時代は鈴木いづみを置き去った。

 「10光年のはるか彼方から 鈴木いづみが還ってきた」と「ハートに火をつけて! だれが消す」の帯にある。だが、誰もニヤニヤと笑いながら「お帰りなさい」などと迎えてはならない。鈴木いづみは、自らの力で「還って来た」のだ。愛が金で換算される時代にあって、無償の愛に生きて死んだ鈴木いづみの真っ直ぐさが求められるようになったのだ。

 忘れ去っていた自らを恥じる。置き去りにしたSFと時代を悲しむ。再生に尽力した人々を敬う。そして何よりも、素晴らしい小説をたくさん残してくれた鈴木いづみに心からの感謝を贈る。


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