a Heebie−Jeebie
ひいびい・じいびい

 ジャズなんてほとんど全然聴かなくってジャズじゃない音楽だってせいぜいが「山下達郎」に「はっぴえんど」に「モーニング娘。」くらいな人間が言うことだから信憑性は0・032%くらいだと思って聞いて頂くとして、確かジャズのアルバムタイトルだか演奏手法だかジャンルだかに付けられていたと記憶している「heebie jeebie(ヒービージービー)」という言葉をタイトルに持ったとり・みきの単行本「ひいびい・じいびい」(ぶんか社、1600円)を読んだ時、これは多分音楽のとりわけジャズあたりの構成なんかにインスパイアされた部分のある漫画なんじゃないかという印象が浮かんで来た。

 もちろん「heebie jeebie」がどんなものかも知らない人間だから「ひいびい・じいびい」と「heebie jeebie」が等号のイコールで結ばれているのか重なる部分のある集合なのかまったく無関係の存在なのかは分からない。分からないけれども持っている「heebie jeebie」=「ジャズのなにか」といった等式から連想し、且つジャズという音楽のジャンルから空想した、どがちゃかと様々な主題がさまざまな楽器で演奏され時に特定の楽器が飛び出し別の楽器が答え即興が交じりながらも次第に収斂していくというイメージが、「ひいびい・じいびい」の構成に重なることだけは確かだ。

 まあ可能性としてあらかじめそういった構成の漫画と読んだところから立ち上がって、こういうものがジャズなのかと逆連想した可能性もあるから、ジャズとの関係なり「heebie jeebie」との連携に関しては眉に唾し口に笑いを含んで聞いて頂くのがやはり幸いとして、少なくとも漫画の「ひいびい・じいびい」から立ち上るイメージには旋律とリズムという音楽的な、それもカチッと固められたクラシックというよりは即興のいっぱい交じった近現代の音楽の雰囲気があるということだけは断言したいし信じてもらいたい。眉の唾をここだけはちゃんと拭ってもらって。

 「悪魔くん」に出てきた口からガスを吐いて人をマネキンにしてしまう化け物とか実写版らしいアトムとかダダとか忍者ハットリくんとか、合っているかどうかは別にしてそんなどこか懐かしいイメージを浮かび上がらせる人物たちが登場する目次をイントロとすると、50音順にならんでいるそれぞれの文字が頭についたなにかが絡む短い漫画が「あ」から「ん」まで続く構成の中の例えば「う」に項目にあたる「うみうしつかい」の主題は、ずいぶんと間を置いてラストの様々な主題が混淆する部分にクライマックスとして再登場する。

 それから「つんぐうすいんせきのなぞ」でメインを張る隕石の主題は、「つ」の項目の中だけでもツングースに落ちたと思ったら投げる星飛宇馬を襲いゴルゴ13が狙った車を襲い天安門広場を逃げるサングラスの作家を襲いと畳み掛けるように使われた後も、直後の「てつじんれえす」でゴールに入ったトライアスロンの選手を襲い、「とおやまのきんさん」で諸肌脱いでべらんめえの金さんを襲うといった具合に、後を引くように流れ出てきては聴く人ならぬ読む人の気持ちの余韻をしばし引っ張る。

 直後の「な」の項目「なんぱ」に入る最初のコマでテレビに映っている果たして今時どれくらいの人が知っているだろう新田恵利は実は冒頭「あ」の項目「あさ」で恐ろしくも面白い新田恵利が巨大な樹原亜紀になっていたというエピソードの中でひとしきり奏でられた旋律に結びついているものだし、同じコマの炬燵に入って巨大な鼻糞を前に三白眼でテレビをにらむたきたかんせいの主題は、「す」の項目「すてゅうでんとあぱしい」から続いている。驚くべきことにこの「すてゅでんとあぱしい」から「せ」の項目「せんしんてんい」に繋がるコマには後に出てくる隕石の主題がほの見えていて、「つんぐうすいんせきのなぞ」への前奏めいた役割を果たしているよる。

 「うみうしつかい」の主題がクライマックスの「わ」の項目「わんすあぽんなたいむ」で再び奏でられるのと同様に、この項目では「るすばんでんわはねむらない」の砂漠にあって線もつながっていないのに次々と他から電話がかかって来ては声を録音して再生する留守番電話機の主題もあり、また山の形に沿って複雑に隆起し陥没している地平線が線となりやがて1本の横線となったと同時に息絶えた馬の鞍を馬の胴回りの肉ともども切り取り運んで酒場へと出向くサングラスの作家が登場する「も」の項目「もにゅめんとばれい」の主題もあり、その他さまざまな項目で奏でられた主題が折り重なり畳み掛けられるように奏でられては単行本の1巻を通して読んできた時に感じた気分を再確認させ、一種感動めいた気持ちを煽っては幕を引く。

 重層し連携し時に脱線し時に上滑りしながらもさまざまな主題が収斂していく感覚が、だから音楽のそれも「heebie jeebie」とどういう関係があるのかはやっぱりさっぱり分からない。まあ分からないからといって別にどうということもなく、読んでいる人はただただその計算され尽くしたものなのかそれとも天才のみが成せるひと筋たりとも筆を謝らず完璧な絵を描き上げる直感によるものななのか、いろいろと想像しながら繰り返され蒸し返される旋律のうねりに浸ってみるのがこの「ひいびい・じいびい」の楽しみ方であり、真っ当な受け止め方ではないだろうか。

 もちろん稀代のギャグメーカーにして条理不条理なんでもござれのとり・みきだけに、それぞれの項目の漫画だけでも存分以上の楽しみは得られること請け負いで、これは眉に唾する必要はない。冒頭の巨大な樹原亜紀になってしまった新田恵利の情けなくもおかしい「あさ」しかり、水上歩行が可能なまるでキリストの再来とも言える少年のとてつもなく俗な日常を描く「きせき」しかり、ずぼらな女性作家のマンションに突如おとずれた掃除洗濯故障の修理といった謎めいた”ルームサービス”が傷ついた女性に与えた最後の奇跡を描いた「にんげんのてがまだふれない」しかり。ストレートな起承転結のドラマあり、日常に非日常を重ね合わせてズレを浮き立たせて違和感を醸し出すエピソードあり、イントロにあったようなノスタルジックな記号を散りばめて不思議な感覚を浮かび上がらせるエピソードあり、椰子の木のある無人島というテーマでひとこま漫画やショートショートを連ねて見せる小技ありとどの項目のどの漫画を取っても楽しめる。

 1987年にいちど白泉社から刊行されたものの今ほど大スタアになる目前だった関係からか長く絶版になってしまっていたらしいこの本が、21世紀の今に甦って来たのはとにかく素晴らしい。ひとつひとつをさらりと読んでも楽しめるし、散らばった同じ主題を探るなり前後の関係を分析するなりといった深い読み方も可能という、1冊のくせに50音分、といっても「を」とかはないから数は少しばかり減るけれどもそれを補ってあまりあるからやっぱり50は超えるだけの楽しみを与えてくれる凄い漫画がこの「ひいびい・じいびい」。祖父江慎による装丁からして「か」とか「そ」とか「に」といった各項目のページの小回りを縮小して並べた表紙裏表紙になっている凝り様で、ほかにも隠れた主題があるんじゃないかと表紙をはがしたりひっくり返してみたくなる。やあこれは。知りたかったら買うべし。前に持っている人もやっぱり買うべし。ところでやっぱり「heebie jeebie」ってなんだろう。


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