蛇を踏む


 「実家に戻ると、民家だったはずの家が旅館に変わっていた。母が時折ガラス戸を開けて、道行く人にタバコを売っている姿を見て、やるせない思いにたまらなくなった」

 「旅館に入ってふすまを開くと、そこではバスケットボールの試合が始まろうとしていた。どうやら僕も選手の一人らしく、皆が上着を脱いでユニフォーム姿になっていくのを見て、ちょっと遅れて僕もユニフォーム姿になろうとするのだが、あまりゲームをやりたくないのか、いっこうに服が脱げない」

 2年くらい前から、印象に残った夢をワープロで書き留めている。ここに書いた夢もその1つ。時間が経つとどんな夢だったのかを忘れてしまうので、眠い目をこすりながら、さっきまで見ていた夢を必死で思い出して書き留める。書き留めながら、夢で見ていたシチュエーションが、日常の世界では絶対に起こり得ない非日常的なものであるにも関わらず、夢を見ている間は、それをまったく不思議に思わずに、受け入れてしまっていたことに気がつく。

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 川上弘美の小説は夢に似ている。不思議な場面が広がっているのに、見ている間はそれを不思議と思わない心理が、川上弘美の小説に登場している主人公たちの心理に、どこか似通っているような気がする。日常的な生活を突如襲う非日常的なシチュエーション。それをなんの抵抗もなく受け入れてしまう川上弘美の小説の登場人物たちは、いつまでも醒めない夢のなかで暮らしている人々なのだ。

 第1短編集の「物語が、始まる」(中央公論社、1100円)に続いて、川上弘美の第2短編集「蛇を踏む」(文藝春秋、1000円)が発売された。「物語が、始まる」に収められた短編がみな、日常的なシチュエーションに、なんの説明も前置きもなく、非日常的なシチュエーションが登場する点で共通していると感じたが、今回の短編集でも、表題作の「蛇を踏む」で、同じ印象を受けた。

 蛇を踏んでしまった女性が、人間の女に変化した蛇につきまとわれて、蛇にならないかと誘われるストーリーを、芥川賞選考委員の日野啓三は「人類の普遍的で根元的な深層心理のドラマに通じている」と読み解いている。そしてその理由を、「日常生活の中で心ならずも神話的領域に触れてしまう。ハイテクの世界でも心の深みではわれわれは神話的元型の暗い領域を生死しているからである」と説明している。

 だが自分には、そこまでの意味をこの小説から読みることが出来なかった。蛇という生き物は、確かに神秘的な存在として長く崇め畏れられてきた。しかし今時の人たちが、果たして蛇を神秘的な存在などと考えるだろうか。蛇を踏んだからといって、気持ち悪さを感じこそすれ、自然の神秘を冒涜したなどと畏れたりはしない。

 「蛇を踏む」の主人公も、蛇を踏んだことで神秘的な領域に触れてしまったと畏怖する心理など持ち合わせていない。日常を侵す非日常を漫然と受け入れ、押し流されていくだけである。意味を感じとろうと意気込んで読み始めても、それこそ蛇のようにヌラリスラリをかわされてしまって、主人公といっしょに、混沌とする夢の世界へと引きずり込まれていくだけだ。

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 単行本に収められた3編の中では、「惜夜記(あたらよき)」に、これまでの川上弘美とは違った新しさを感じた。小説を構成する19編のショートストーリーは、どれもが断片的な夢のよう。読者は日常が次第にズレていく感触を味わうプロセスを踏まずに、のっけから非日常の世界へとたたき込まれる。語り手と少女とのやりとりが1話ごとに繰り返される合間に、食事する様をながめる紳士たちの話、ふところにモグラを忍ばせた男の話、西方にいる永遠の像を探しにいく話などが挟み込まれ、語り手と少女の運命を辿りながら、繰り返し襲ってくる幻想に惑い眩ませられる。

 芥川賞を受賞したことで、「蛇を踏む」のような作品が要求されることが多くなるだろうし、こうした作品にこそ、「うそばなし」の創作者としての、川上弘美の持ち味が発揮されるというのも事実だろう。だがしかし、登場人物たちが出会う非日常があまりに「妄想的」であるがために、すんなりと入り込めないもどかしさを抱く話もある。その点「惜夜記」は、ポンと投げ出された先がすでに非日常で、そこから話が始まっているため、異様な非日常が絡みついてくることへの不快感に悩まされずに、作品の世界に入り込めた。時々でいいから、「妄想的」ではなく「幻想的」な話の中で、川上弘美の想像力・創造力を発揮してくれないものだろうか。


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