ハシビロ家族

 ハシビロコウでも良いお父さんなのか。ハシビロコウだからこそ良いお父さんなのか。

 水島ライカによる「ハシビロ家族」(新潮社、580円)という漫画。描かれている、お母さんがいてお姉さんがいて妹がいるという、そんな家庭のお父さんがハシビロコウ。鳥の。動かない。絶滅危惧種な。顔の怖い。

 だからどうして? という理由もなしに、ハシビロコウがお父さんだという家族を描いたストーリーは、そんなお父さんの動かないし強面だし、口数も多くはないけれど、しっかりと家庭に居場所を得て、娘たちを思い、妻を思い、家族を思って生きている姿が浮かび上がってくる。

 そして、家族って良いなあと思わせ、お父さんってこうあるべきだなあ、こうありたいなあ、こうあって欲しいなあという、さまざまな思いを受け止めてくれる。お父さんはハシビロコウなのに。それともお父さんがハシビロコウだから?

 もしもこれが、普通に無口で、木訥で、ちょっぴり強面の人間のお父さんだったら、きっと違う印象になっただろう。まったく違う漫画になったかもしれない。人間のお父さんだったら、外に働きに出るか、家で出来る作家や画家といった仕事に就いていなければ、家でごろごろしているだけで、役立たずの穀潰しだと思われるだろう。

 けれども、ハシビロコウのお父さんには、そうした理由は必要ない。家にいて1日動かないで立っていても、ハシビロコウなんだからと納得できる。だったら、お母さんが一生懸命に働いて、家族を養っているといった強調もなし。お父さんはハシビロコウ。それだけ。現実にはちょっとあり得ない家庭環境だけれど、だからこそハシビロコウならではの存在感が、家族というものに動きを与え、まとまりを与える。

 ももかちゃんが買い物に出かければ、後をついていって動かないでしっかりと見守る。ももかちゃんが大切にしているぬいぐるみがなくなれば、店に買いに行くけどなくなったぬいぐるみにこもった思い出を大事にすべきだと考え直し、返品して家の周りを探して元のぬいぐりみを見つけ出す。優しいお父さん。しっかりとしたお父さん。その存在が家族の結びつきを強くする。ハシビロコウなのに。違う、ハシビロコウだから。

 思い起こせば、赤塚不二夫の代表作「天才バカボン!」も、ちょっぴり変わったお父さんを中心にした、強い絆で結ばれた家族が登場する漫画だった。バカボンのパパはテレビアニメーションだと植木屋さんになっていた頃もあったけれど、基本的には無職の放浪浪者=バガボンド。そんな破天荒なパパが繰り広げる滅茶苦茶な毎日の奥に、バカボンのパパを愛し、愛されるお母さんがいて、パパを常に信じるバカボンがいて、ハジメちゃんも生まれた家族の絆の確かさがのぞいていた。

 どこまでも能動的に、アクティブに、スラップスティックさも見せながら動き、走り回って壊しまくるバカボンのパパと、だいたい家にいて、ほとんど動かないハシビロコウとは雰囲気がまるで正反対だけれど、漫画から漂ってくる、家族を大切にする姿を描き、結びついた家族の素晴らしさを見せたいと願う雰囲気に、似たものがあるように感じられる。

 お父さんがハシビロコウでも良いのだ。お父さんがハシビロコウだからこそ良いのだ。

 ハシビロコウのお父さんを取り巻く人たちもとても良い。どこまでも純真な妹のももかちゃん、美人だけれど口調は乱暴だけれど家族も父親も大好きなお姉ちゃん、美しくて優しいお母さんといった家族に加え、美人だけれどちょっと抜けていて、レンジで温めたご飯でヤケドしたりする学校の先生が、作品に温もりを与えてくれている。誰もが実直に、まっすぐに日々を生きている姿が読んでいてストレスを感じさせない。

 そんな夢のような世界に少しだけ、現実の厳しさも紛れ込んでくる。学校で起こるいじめの問題が、少女の気持ちを落ち込ませ、同じ立場にある人たちを悲しませたりするけれど、それでも最後は仲直りして、友だちとなって2人で歩んでいく。そんなに簡単に行く訳はないと、厳しい現実から意見も出そうだけれど、そこに理想があるなら、近づけていくことがまず大事。そのための道を示してくれていると知ろう。

 そもそもが、お父さんがハシビロコウだという世界だ。けれども、だからこそ描ける理想の家族があり、社会があり世界がある。人間はハシビロコウにはなれないけれど、ハシビロコウのように在ることは可能。ハートフルでハートウォーミングな物語が読んで、心をほっこりとさせよう。その心を外へと向けて、世界をほっこりとさせていこう。


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