HARD KNOCKS Rolling With the Derby Girls

 「BOBCAT」という写真集が、しばらく前にアメリカで出た。アメリカの女子ソフトボール選手たちを写したエリック・ペイソンの写真集。男子と同じロングパンツのユニフォーム姿で戦う日本の女子野球とは明らかに違うし、短パン姿の日本のソフトボールとも少し違った華やかさを感じさせる女性たちが、日々の練習に励み、薄暮の中で照明をカクテルライトを浴びながら試合に臨む様子が写し出されていた。

 女子のスポーツというと、日本ではバレーボールやバスケットボールも含め、どこまでも企業活動の一環として、部活にも似た頑なさが漂う。アメリカのソフトボールに勤しむ選手たちには、何かによって守られている安心感は見えない代わりに、自分の好きな道を選んで精一杯に浸っている喜びが溢れているように見えた。そんな喜びを感じ取ったからこそ写真家は、女子ソフトボールを題材に選び、写真に撮って写真集にまとめたのだろう。

 スポーツというどちらかといえば男子に偏り勝ちな活動に、女性が勤しむことによって浮かび上がるある種のエロティックさを、そこに見いだそうとする視線がなかったかというと、まったく皆無ではなかったかもしれない。撮る側がいくらニュートラルを貫いたとしても、見る側にはやはりそうしたエロティックさへの興味は浮かんでしまう。女子フィギュアスケートにしてもシンクロナイズスイミングにしても、新体操にしてもビーチバレーにしても、女性が主役のスポーツからそうした視線を消すことは難しい。

 ローラーゲームとして1960年代に人気となった競技が、今も本場のアメリカでは、ローラーダービーという名前でずっと楽しまれているそうで、プロテクターを身に着けた女性たちが、コースをローラースケートで周回しながら、ぶつかり合って競いあう姿を見に、大勢の観客が詰めかけているという。

 以前にも増して衣装はカラフルになり、プロテクターに守られない部分の露出もしっかりとあって、見た目のセクシャルさで観客を引き付けているという部分が少なからずある。プレーする方もそうしたアピールを、決して意識の外には置いてはいない。観客が求めるなら精一杯に見せつける。プロフェッショナルとして当然の振る舞いだ。

 しかし、もしもローラーダービーという競技をじっくりと見れば、そうしたエロティックな空気を抜けて、感じられる熱さがあるのではないか。ビーチバレーでも露出の激しいユニフォームへの関心を超えて、暑い日中を激しくプレーする姿に感銘を受けられるように、ローラーボールも試合にかける選手達の熱情や、試合の中で全霊を傾けてプレーする選手達の心意気が、試合の中から浮かび上がって来るのではないか。

 見た目の派手さと激しさに隠れてしまいがちなそうした事柄が、シェリー・カールトンという写真家によって撮影された、ローラーダービーの女性選手たちが写し出されたモノクロの写真集「HARD KNOCKS: Rolling With the Derby Girls」(Kehrer Verlag Heidelberg、38$)から浮かび上がる。

 表紙とそして本文のほぼ冒頭から並べられるのは、ローラーダービーに携わる選手たちのポートレートだ。真正面からレンズを見据えた彼女たちの顔は、ファッションモデルのように美をアピールするのではなく、アスリートとして強さを訴えるような強い意志に満ちている。顔立ち自体がとてつもなく強情で迫力に満ちている。

 試合の様子をとらえた写真も、実際に見れば派手な衣装や露出した手足が、白と黒のコントラストの中に埋没し、代わりに躍動する筋肉のパワーや疾走するスピード感、そして熱さが漂い溢れてる。女性がハードに組み合う姿から漂う淫靡さを遙かに超えた、スポーツそのものが放つ強烈な熱さが溢れ出して来て、見る人たちの胸を躍らせる。

 「BOBCATS」に写された女子ソフトボールの選手たも含め、決してメジャーではなく、かといって落ちぶれてもいないスポーツに関わる女性たちの、日本からでは伺い知れない生き様というものを見せてくれる、こうした写真がどうしてアメリカでは撮られ得るのか、世界で刊行され得るのか、といった興味も合わせて浮かんでくる。

 これが日本なら、例えば女子サッカーなら特定の選手にスポットがあてられ、苦境からはい上がって世界に近づこうとしている云々といった、感動にまみれた文章とともに紹介されることになるだろう。バドミントンもビーチバレーも、姫だの女王といった特定個人の、とりわけ見目に利点が見いだされ得る選手ばかりが取りあげられて、スポーツそのものにスポットが当てられることはまずない。

 しょせんはアイドル写真集の延長であって、スポーツの写真集ではない。対して「BOBCAT」も「HARD KNOCKS」も、選手がいて携わるスポーツがあって、それらが当たり前のことのように全体像として写しとられていて、そこに携わっているということの大変さと楽しさが、しっかりと画面から伝わってくる。誰が何をしているといった特定個人に還元され得ない面白さがしっかりと見て取れる。

 こうした写真集が編まれ、刊行されるということは、それだけ競技としての女子スポーツに関心を抱いている人が、世界には写真家にも編集者にも読者にも大勢いるということだ。なんとおおらかで素晴らしい状況か。姿態にばかり注目が行く国とはまるで違う。探せば世界にはほかにも様々な女子スポーツを題材にした、スポーツなり人間なりを捉えた写真集があるかもしれない。

 写真家について記すなら、1959年にヒューストンで生まれた女性で、過去に大きな活動をしていた訳ではない模様。それでもしっかりとした仕事が出来て、遠く日本でも関心を持ってもらえる仕事ができる。御大や重鎮といった名前なり、写し出された人物の名声なりがなければ刊行され難い国とは違う。全員が横一線に現役で、そして政治力でも財力でもなく実力で勝負できる状況に、世界の出版業界があることも、こうした興味深い作品が生まれてくる背景にあるのだろう。
積ん読パラダイスへ戻る