looking up at the half−moon
半分の月がのぼる空

 高校3年生の夏休み。その最終日になる8月31日の夜に痛み出した下腹部が、駆け込んだ病院で盲腸だと診断されて手術したのが翌9月1日。半年も経たずに始まる大学受験を前にした入院に、これで受験も終わったと落胆したり、手術という直接的な痛みへの恐れに、当日は身を震わせていたというとそうでもない。

 しゃかりきになって勉強したって入れる大学なんてないだろうという諦めから受験への心配はまるでなし。手術だって麻酔が効いてる間に終わってしまうから、痛くもかゆくもない(現実は局所麻酔の効きがいまいちでもの凄く痛かったんだけど)と安心していた。

 何より期待していることがあった。病院、とくればそこにいるのは看護婦さん。いたいけな高校生の手を取り足を取って大人の世界へと導こうと、手ぐすね引いて待っている彼女たちとの日々を思えば、響く痛みも受験への懸念も軽く吹き飛ぼうというものだ。万全を期して、受験勉強をしたいからと個室にしてもらったこともあって後はただ、寝ているだけですべてがかなうと信じていた。甘かった。

 待っていたのは当然過ぎる結末で、個室の夜に訪ねて来る看護婦の1人もいなければ、昼間に待合室で恋の相談にのってくれる看護婦もなし。当然ながら大人の世界など見られるはずもなく、哀れ少年は孤独な夜をラジオでなぐさめながら、4泊5日の入院生活を終えることになった。

 だから橋本紡の「半分の月がのぼる空」(メディアワークス、510円)には、こんなに都合の良い話があるものかと、半ば怒り半ば呆れ、それ以上に羨望の念から本を持つ指に力がこもった。主人公の裕一は17歳の高校生。ウイルス性の肝炎を患って入院し、栄養をとりながら安静にし続ける退屈な入院生活を送っていた裕一は早速、元ヤンキーで怒ると恐いけれどもヤンキーらしく気っ風が良くって世話好きな、美人看護婦の亜希子さんと仲良くなる。

 スリッパで頭をコツコツと叩く乱暴なところもあるけれど、それは裕一が病室を抜け出して遊びに行こうとしたからで、怒られナースステーションの前で正座させらるのも自業自得と言うもの。むしろ美人の看護婦さんから何くれとなく目をかけられ、はしゃげば注意してもらえるというだけで、羨ましさに嫉妬の念がわき起こる。

 あまつさえ、亜希子さんのちょっとだけ意地悪の入った気遣いで、同じ病院に入院して来た同い年の美少女、里香と知り合い友人になってしまったからたまらない。里香がいささかわがままな性格で、裕一を奴隷のように扱ったとしても、美少女とコミュニケーションが取れたということ、その1点を持って羨ましいという思いに胸を打たれ、妬ましさに裕一を呼びだして、スリッパの角で何度も頭を叩いてやりたくなってくる。

 もっとも、そんな両手に花(どちらも毒をたっぷりと含んだ花だけど)の裕一に対する羨望も、物語を読み進むにつれて変わっていく。ボーイ・ミーツ・ガールのラブコメディだと思っていた物語が、人の命に関わる重たいテーマをはらんでいたものだと知った時、そしてその命を左右する立場に裕一が立たされていたのだと分かった時、彼への羨望は同情へと変わる。

 里香が入院していた病棟は、重病の人ばかりがいる場所で、里香自身も心臓に重たい病気を抱え、手術をしなければ命に関わる状況だった。裕一は里香に手術を受けてもらいたいと思っていたけれど、以前に同じ病気を患い、手術をしたにも関わらず完治しないまま死んでしまった父親のことが頭にある里香は、なかなか手術に踏み切れないでいた。

 そんな里香がかつて父親と登った砲台山に行ってみたい、そうすれば覚悟できるかもしれないと言いだした時、裕一は病室を抜け出し仲間にバイクを借りて後ろに里香を乗せ、夜道を砲台山へと向かって走らせた。彼女を砲台山へと連れて行けば、手術を受けてくれると裕一は信じ切っていた。そして。

 砲台山で里香は覚悟を得た。彼女に勇気を与えることができた。そんな喜びが、次の瞬間に深い絶望へと変わってしまう。裕一が願っていたものとは正反対の覚悟を決めたと里香は言う。里香のために頑張った果てに受けた”裏切り”に、裕一が受けた衝撃を思うと、入院なんてしなければ良かったのに、そうすればこんなに辛い思いをしなくれすんだのにと言ってやりたくなる。

 けれどもその後の展開に、やっぱり裕一は入院して良かったんだと思えてくる。たとえ深すぎる絶望であっても、愚直なまでの行動によって変えることが出来るんだと気付かされて嬉しくなってくる。看護婦と知り合いになれる? 美少女と友人になれる? 入院すればなるほど、そんな役得があるかもしれない。ない可能性が高いことは経験から分かっていても、希望としては胸に灯しておきたい。

 そんなこと以上に、裕一のように誰かを勇気づけられるかもしれない、絶望の淵から救ってあげられるかもしれない、といった可能性の方に今は強く心惹かれる。病院という場所柄から目の前で繰り広げられる「死」の辛さ、寂しさを身をもって実感し、その上で「生」に対する強くて真摯な思いを得られる可能性に、今は気持ちを動かされる。その意味で言うならやっぱり裕一は羨ましい。彼が経験したこと、なし得たことが純粋に羨ましい。入院。悪くない。

 夢想が絶望へと変わり、それが再び歓喜へと変わった素晴らしい物語を経て、関係を近づけたところで裕一と里香の物語にハート型のエンドマークが出ても悪くはなかった。ただしどうやら物語はまだ続くようで、今度こそは亜希子さんに里香という両手に花の入院生活が、裕一を待ち受けているのかもしれないと、そう思うと嫉妬の念がめらめらと再燃してくる。が。そこは若者の揺れ動く心の機微をくみ取り、希望を示す物語を紡ぐことに長けた作者のこと。腐れ縁と化した3人のドタバタではない繊細で豊かな物語を読ませてくれることだろう。


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