白蛇島

 もうずいぶんと故郷に帰っていない。

 昭和の中頃に村から政令指定都市の区に組み入れられたその町は、高度成長下で急速にベッドタウン化していった郊外の町々の例にもれず、急速に増え続ける人口の中でため池は埋められ田圃は潰され雑木林は切り開かれ、みるみると都市化していった。

 もっとも町の中心部にあたる地域に古くから寄り集まって住んでいた人たちの子々孫々に伝わる関係は、本家分家とか、隣組とか近所づきあいといった日本に特徴的な濃密さを未だに持ち続けているようで、弔事慶事の類があれば行き来をし、大晦日ともなればほとんどの人たちが外れにある氏神さまへと初詣に向かう。

 やれ誰それはどこそこの学校に進学しただの、やれ誰それはどこそこから娘を嫁に取ったといった話がたちどころに広まって、まだ村だった頃を知る大人たちの関係の濃密さを証明する。そんな関係に息苦しさを感じ、親戚づきあいに鬱陶しさを覚えて逃げ出したい、自由になりたいと思う人も若い世代には少なからずいた。というより現にいる。

 故郷から遠く離れてふと浮かぶのは、あの濃密さの中に身を委ね心を漂わせることで得られる安寧への郷愁だ。なかにいて覚える息苦しさも外から見れば常に繋がっていたのだという熱さに映り、鬱陶しさも常に気にしてもらえていたのだという安心感に映る。再びなかに入ったら入ったで、息苦しい鬱陶しいと感じるかもしれないけれど、ならば出たら出たでやっぱり郷愁がじわじわとしのび寄る。

 自由になりたいと思い自由になったつもりでいたのに、自由になり切れずにさまよい続けるのはなぜなのか。どうやったら本当に自由を得られるのか。その答えはもしかすると、三浦しをんの描く離島を舞台にした物語「白蛇島」(角川書店、1900円)に出てきた、「逃げ出したい場所があって、でもそこにはいつまでも待っててくれる人がいる。その二つの条件があって初めて、人はそこから逃れることに自由を感じられるんだ」(126ページ)という言葉に見つけることが出来るのかもしれない。

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 その島、拝島は本土の港湾都市から一晩船に揺られてたどり着ける孤島で、島民たちはもっぱら漁で生活を立てていた。アウトドアブームの昨今、孤島にも綺麗な海を空気を求める都会の人がひんぱんに行き来するようになっている所が出て来ているけれど、拝島は人の出入りをあまり好まずましてや新しい人が住み着くこともなく、島民たちは文明化はしながらも古くからの因習を守り信じて暮らしていた。

 絶海の孤島。狭い土地に限られた食糧。となれば住める人たちも限られていた時代が長くあって、島民は長男だけが家を継ぎ、次男以降は成人するかしないかで、本土なり別の場所なりへと出ていくことが決まりになっていた。言い伝えの類も多く残っていて、白蛇を祭った神社が13年に1度行う大祭によって、島を脅かす「あれ」から島が護られているのだということになっていた。

 島民挙げての祭りになる大祭に合わせて、長男でありながら、島の濃密な関係にどうも馴染めず本土の学校に通っていた前田悟史も船に揺られて拝島へと帰って来た。出迎えたのは幼なじみの中川光市。単に同級生というだけでなく、2人はこれも島に伝わる「持念兄弟」という関係にあった。

 島に生まれた長子で比較的年の近い2人がなる「持念兄弟」は、本当の兄弟以上に結びついた存在とみなされていて、冠婚葬祭といった場での物理的な関わりだけでなく、例えば遠く離れた相手の死を感じるといった具合に、精神的な部分でも密接な関係にあった。島の関係が苦手な悟史も「持念兄弟」の光市だけは気持ちが緩むのか、数カ月に1度しか合わない状況になっても、合えば即座に心が通じるような感覚を抱いていた。

 島に帰って悟史は、光市の運転する軽トラックに乗って親戚や世話になった人への挨拶に回ることになった。ところがその途中、立ち寄った民宿を経営する家で奇妙な黒い影を目にする。大祭の時には極力、島の外の人をいれないようにしている拝島だけに知らない人がいるはずもなく、当然ながら家人も宿泊客がいることを否定する。折もおり、悟史は母親から島を脅かす「あれ」があちらこちらに姿を現しているという話を聞き、13年に1度の大祭を前に、島に不穏な空気が立ち上り始めていることを感じる。というよりその目で見る。

 実は悟史には子供の頃から人の見えないものが見えるという力があって、それが濃密な関係以上に島での暮らしを違和感のあるものにさせていた。13年に1度の大祭で、なおかつ宮司が信一という息子へと代替わりする特別な大祭に時期を合わせて起こる不思議な出来事の数々。宮司としての才覚を持ちながらも次男であるが故に島を出なくてはならず、また当人もそれを納得している荒太という青年と信一との愛より憎が勝る関係も取りざたされて、ますます不穏な空気が募るなか、悟史はその力を使いまた、「持念兄弟」の光市の支えを得ながら島の危機へと立ち向かう。

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 時代にそぐわなくなった古い因習と、新しい感覚とのぶつかりあいの中で起こる事件を描いたミステリーとも読め、孤島というどこか幻想的なものを感じさせる世界で起こる、不思議と冒険の数々を描いたファンタジーとも読める展開が面白い。また、そうした展開を成り立たせる孤島という舞台や「持念兄弟」をはじめとした数々の因習、「あれ」の存在といった設定面での作り込みもなかななかに深く強い。

 そんな世界観の上で踊るキャラクターたちもまた魅力的で、悩み多き悟史にあっけらかんとした光市の「持念兄弟」の2人を手始めに、体が弱いといいながらもどこか内に秘めた力を持っていそうな神宮荒太、その荒太が暮らす離れに大祭中であるにも関わらず客として留まる犬丸という名の荒太の高校時代の友人といった、物語に大きな役割を果たす男たちのの、友情とも愛情とも主従関係ともとれそうな濃密な関係にあれやこれやと想像を掻き立てられる。

 頑なに因習を護ろうとする悟史の父親、才能を持つ弟に嫉妬しながらもプライドにすがろうとあがく信一ほか、それぞれの立場で島が置かれた状況を考え時に行動もする、島民たちの血肉を感じさせる描き方にも感嘆させられる。悟史の妹で本土に出ても通じる可愛さだと兄が認める日和子と、悟史の恩師の娘で日和子と「持念兄弟」のように仲がよく、そして悟史が実は好きだという佐和子の2人が大祭で踊る姿は絵にして見てみたいところ。夏の空気と海からの風に包まれて、きっと艶やかなことだろう。

 そして、そうした奥深い物語と作り込まれた世界観、練り上げられたキャラクターの中から浮かび上がってくる自由と郷愁をめぐる関係が、自由を願いつつ郷愁に惹かれている胸に強く響く。島を逃げ出したくして仕方がなかったはずなのに、島に帰って光市に合うとホッとする悟史は、「逃げ出したい場所があって、いつでも待ってくれている人がいること」だという自由の、まさしくただ中にいる。振り返って「いつでも待ってくれている人」の不在が、自由と郷愁の綱引きの中に人を迷わせているのだということに気付く。

 もっとも、「いつでもいる待ってくれている人」にとっての自由は果たして何かを考えた時に、ひたすらに自由を求めようとする気持ちに影が射す。待つ人の自己犠牲の上でしか待たせる人の自由は存在しないのではという疑問が頭をよぎる。それでも待たせる人を得て自由になるべきなのか、それとも待つ人と待たせる人のともに自由を感じる道があるのか。そこまでの答えを三浦しをんが与えてくれているかどうかは分からないけれど、考えるヒントは得られたような気がする。あとは自分で探すしかない。

 帰ろう。故郷へ。


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