白銀の救世機

 人類がいずれ迎えるだろう滅亡の時。それを、少しでも先に延ばすには、人類が人類ならぬ存在へと変わるしかないとしたら、それを人類は受け入れ実行するべきか否か。天埜冬景の「白銀の救世機」(MF文庫J、580円)で人類は、アウター・スノウと呼ばれる雪に似た融けることのないな物質によって覆われた地表に現れ、アウター・スノウを食らって生きるXENOという怪物によって攻撃されて、滅亡の瀬戸際まで追いつめらた。

 どうにかして生き延びたいと願った人類は、XENOたちと同じようにアウター・スノウを食らって生きられるよう、自らをゼノイドという生命体へと進化させ、感情を排除することによって操ることができる人型のロボット兵器、ゼノ・トランサーを使ってXENOを相手に闘い、どうにか命脈を保っていた。

 憎むべき敵と同じものを食らい、人間らしさの象徴でもある感情を排除した存在は果たして人類と言えるのか。そんな存在にまでなって、人類は生き延びなければならないのか。問われれば応えに逡巡する命題。とはいえ、生き延びることに意味があるのなら、それは仕方がないこのなのかもしれない。その意味はいったいどこにあるのか。ここでひとつ、考えさせられる。

 感情を完全に排除したとはいっても、やはり人間だからなのか、感情を残している者も少しは生まれて来るようで、主人公のアルツもそんな1人として、浮かぶ感情にゼノ・トランサーの操縦をうまくできない状況が続いて、街に不必要な者だと見なされかけていた。

 次の試験に合格できなければ排除、すなわちXENOが跋扈する地域に追いやられての死が待っている闘いに出されたアルツは、急に感情を消せるはずもなく、現れたXENOに追いつめられ絶体絶命となってしまう。その最中、アルツは陥った穴の底で、300年前からコールドスリープさせられていた少女ナユキを見つけ、目覚めさせる。

 XENOが現れ世界を襲った初期の闘いに活躍していたという彼女は、目覚めて300年も経っていることに驚き、一緒に眠った留美という名の少女がいないことを嘆きながらも、共に眠りから覚めたゼストマーグという人型のロボットを操ってXENOに挑み、これをあっさりと退ける。

 なぜそれが可能だったのか。ユキナにはゼノイドたちにはない豊かな感情があった。その感情を燃やすことでパワーを生みだし、ゼストマーグを動かしていた。

 だからなのか、ゼノ・トランサーは動かせなかったアルツはナユキと組んでゼストマーグを操り闘うことができた。感情が彼を救い、彼らが街を救って世界をも救おうとしている。そうなるまでのつなぎとして、そして感情の素晴らしさを知るために、人類は1度、ゼノイドとなって感情を失ってみせたのかもしれない。

 随分と進化してゼノイドとなった人類と、ナユキのような旧人類とが同じ環境で暮らせるものなのか。そのあたりは難しさもありそうだけれど、基本的な体の構造は変わっていないようで、研究されていた旧人類向けの食事でナユキは食いつなぎ、それをアルツたち新人類も嗜んでは感情らしきものを育ませていく。

 かつてそうした感情でXENOを倒す兵器が発達せず、人類はゼノイドとなり、ゼノ・トランサーを生みだしたのか。感情をエネルギーとして使い続けることで、歪むものがあることも見えてきて、復活したナユキや彼女を支えるアルツたちの闘いの先に暗雲をなげかける。もっとも、1度そうした道を通って感情の愚かさを知った上で、感情の代え難い大切さも知った人類が、同じ隘路に陥ることはないだろう。人類は勝てる。そして人類としての本来を取り戻せる。そう信じたい。

 誰もが感情を失った世界で、ひとりアルツに豊かな感情が芽ばえたことにも、納得のいく描写があるからそこは安心。とはいえ、たった1機で世界の運命をひっくり返せるほど状況も甘くはない。失った感情を人類が取り戻していくとともに、それを強さに変えて世界の敵を圧倒していく流れが生まれ、描かれていくものと期待しよう。


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